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物語は証券取引の再開から始まる。それはこの物語があくまでも株式市場を通して日本の経済を描いた物語であることを象徴している。前作は戦争が本格化する前に終わったから、結果的にこのシリーズは戦争の悲惨な部分と敗戦直後の混乱を描くことなく、すぐに戦後に移行したわけだ。前作で出征した新ドンが戦死することもなく、復員の苦悩を描くこともなく、兜町に戻って新ドンは喫茶店を始め、ギューちゃんはその2回で相場師に戻っている。 本格化してからの戦争と、敗戦直後の混乱期は人々にとって苦しい記憶だったはずだ。このシリーズはその期間を描かないことによって明るさを維持し、戦後に人たちの支持を取り付けた。そして、そのような心情は戦後を生きる人々に共通のものだったのではないだろうか。凄まじい勢いで変化する新しい時代にあって、苦しかった記憶を想起して足踏みするよりも、明るい今を生き、新しい時代に適応していきたいと望んでいたはずだ。 しかし同時に急激な時代の変化に対する戸惑いや不満もくすぶっていたはずだ。そんな人々は戦前の「古きよき時代」を思い出し、その時代の空気やテンポを懐かしんだ。それは変化に対する当たり前の反動であり、誰もが抱くノスタルジーである。そして、ギューちゃんはそれを見事に掬う。ギューちゃんは戦後の好景気に乗って成功するが、時代の変化によって時代遅れになる。戦前に活躍したギューちゃんのような相場師は時代遅れになり、株屋もサラリーマン化するのである。しかし、ギューちゃんは相場師であることに誇りを持ち、勝負する。その彼の姿はまさに戦後を生きる人々が憧れるような人物像だ。前三作で戦前を描き、最後の完結篇で戦後を描く。その構成によってこのシリーズは最後まで人々の心をつかんだのだろう。
さて、そのような時代背景は別にして、いまこの作品やシリーズを観て面白いのはやはり加東大介である。様々な作品に脇役として登場し、映画好きなら顔を見れば「ああ、この人」とわかるけれど、主演作はほとんどなく、なかなか代表作というのも上げにくい。そんな加東大介のらしさが一杯に詰まったのがこの作品である。かれの真ん丸いな見かけどおりの朗らかな性格が前面に押し出される一方で、様々な作品でも発揮された彼の鋭さも描かれている。 この作品の原作者である獅子文六が小説を執筆するときに加東大介をイメージして主人公像を築き上げたのだというのだから、間違いがない。加東大介は小太りなおっさんだか決してぶ男ではなく、むしろ色男の部類に入る。だからこの作品でも(金があるせいもあるが)女に持てる。この女にもてるというのも以外にも彼のキャラクターのひとつとして確かにあるのだ。 そんな加東大介の活躍が4作品約8時間に渡って見られるこのシリーズは昭和30年代くらいの日本映画が好きな人にはたまらないと思うのだが、残念ながらビデオは廃盤、DVD化もされていない。社長シリーズが何本かDVD化されているのだから、そろそろこのシリーズもDVD化してくれないものかねぇ… このシリーズは戦前へのノスタルジーを描いたものでもあるが、今見ると、日本映画の黄金時代へのノスタルジーを掻き立てる映画でもある。
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