|
名脇役として名監督に重用される俳優生活を送った加東大介が出会った初主演作がこの『大番』である。この作品は原作者の獅子文六がそもそも加東大介をイメージして書いたともいわれている作品で、まさに彼のキャラクターがそのまま映画の中の人物になったような作品であった。だから、彼以外にやる人間などおらず、そして彼が演じて大ヒットとなった。
彼はこのあとも結局主役級の役者となることはなく、脇役としての活躍を続けたが、この作品を見ながらそれにも納得がいった。この作品で加東大介は確かに主役であり、この映画は彼の映画であるし、彼は一人で一本の映画を背負うことができるだけの力のある役者であるとは思う。しかし、彼はやはり一人で絵になる役者ではない。他に誰かがいてこそ彼の芸は生きるのだ。この作品ではその役回りを仲代達矢と淡島千景が助演という形ですることで、加東大介は主役としておもしろい映画を作り上げている。
そして、彼が演じる株仲買人というのも脇役らしいキャラクターである。それは大きな流れの中で小さな役割を演じているに過ぎないという点で、映画の中の脇役に似ているからだ。そんなことを言ったら、すべての人間は脇役に過ぎないのだけれど、この作品は物語のレベルにおいてそうなのではないか。一人の人間が主役としてヒーローになるような映画は限定された小さな世界を作り上げて、その中で主役がその世界を完全に支配するように作られる。それはもちろん株仲買人の世界でもかまわない。
しかし、この作品では、世界は広く、映画の登場人物たちの手には負えない大きな流れが映画の世界を支配してしまう。だから、登場人物は誰もが支配される側の存在であり、脇役であるのだ。それはあまり映画的ではないがリアルな世界でもある。
この映画の主役に加東大介がピタリと来るのは、彼がまさに脇役だからである。そして、この作品世界のリアルさによって、観客は“ギューちゃん”に親近感を覚える。
親近感という点で言えば、彼が田舎の出身という設定であるというのも大きいかもしれない。この時代、日本は復興の途上にあり、多くの地方出身者が夢を求めて都会に出てきた。集団就職列車が運行されるようになったのが1954年のことだから、この作品が作られた頃などまさに集団就職やら何やらで地方から都会へと人がどんどん流入してくる時期だったわけだ。 そのような田舎から来た人々がこの作品を見れば、彼らは“ギューちゃん”に自分を重ねあわせ、ギューちゃんにエールを送るようになる。自分もギューちゃんのような成功が出来ることを夢見つつ、ギューちゃんが経験する失意に共感するのだ。そのような意味で「夜這い」(三木のり平が「よば〜い」と発音するのがおもしろい)に象徴される都会と田舎の文化的な格差が重要な要素として描かれている点も実は重要なのだ。
これはもしかしたら、誰もが主役になれた時代から、誰もが脇役にしかなれない時代へと日本が変わっていった時代の映画なのかもしれない。シリーズがどう続いて行くのか、ぜひ見てみたい。
|