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この映画は男性の股間のアップ(服は着ている)が次々と映るというシーンで始まる。それを物色しているのは一人の男と一人の女、この卑猥にして印象的なシーンでこの2人が主人公であり、同時に“セックス”がこの映画のテーマであることをはっきりと宣言する。この非常に映画的なオープニングにアルモドバルの才能を感じずにはいられない。
彼の作品は(特に初期は)ホモセクシュアル、セックス、ドラッグ、といったある種倒錯的な要素が作品よりも注目を集めてカルト的な作品として一部のファンに受け入れられた。しかし、それを支えたのは彼の映画作りの確かさである。彼の作品はそのような人目を引く要素を備えることで、奇をてらった作品のように捉えられがちであるが、決してそういうわけではなく、彼にとってはそのようなテーマこそが映画にするにふさわしいテーマだったというだけなのではないかと思う。
彼自身、この作品でカルチャー・クラブばりの扮装でパフォーマンスを披露しているように、ホモセクシュアルであり、彼の周りにはゲイ・カルチャーがあり、セックスやドラッグがあっただろう。だから彼にとってはセックスやドラッグやホモセクシュアルというのはあくまで身近な問題であり、映画を作るということは、それらを問題化することに他ならなかったのだ。
そしてより重要なのは、そのようなエキセントリックとも見えるテーマの背後に常にあるのは愛と家族であるということである。彼はドラッグとセックスに溺れる野放図な若者を描いているように見えるが、彼らもただはめをはずして遊び回っているだけではなく、愛や家族について考えているのだ。
この作品ではホモセクシュアルであるはずのリサが女性であるセクシリアに惹かれるということ、さらには近親相姦などのトピックを利用することで、愛や家族というものの形の複雑さを表現しようとしているのではないか。
その姿勢が時を経ることで普遍的な問題へと深化して行き、ついには『オール・アバウト・マイ・マザー』で結実した。この作品にいたってアルモドバルは問題の核にあることをそのまま映画に表現することで、カルト的な作品という評価を脱した。私は、このような作品はメロドラマ的過ぎ、問題の核心をエキセントリックな外殻に包んで提示する初期の作品の方が面白いと思うが、アルモドバルも年齢を重ねて丸くなって、多くの人々に理解されるような作品を撮りたくなったということなのだろう。
それでも、この作品は90年前後の作品『アタメ』や『キカ』と比べるとはるかにおとなしい作品であるようにも思える。私は『バッド・エデュケーション』のレビューで、初期の作品は“狂気”をテーマにし、90年代の終わりからは“孤独”をテーマにし『バッド・エデュケーション』で“欲望”をテーマとするようになったと書き、その“欲望”をキーとして、作品群を再構成できるのではないかと書いたが、事実上のデビュー作ともいえるこの『セクシリア』もまさしく欲望をテーマとした作品だった。
もちろん第一にはセックス(そして愛)に対する欲望、あるいは権力や名声に対する欲望、そのような欲望がすでに明確な形で映画のテーマとして浮かび上がっている。
アルモドバルが二十数年というときを経て、『バッド・エデュケーション』において、最初に抱いていた問題意識に立ち返ったのだとしたら、これからの彼の作品は非常に面白いものになるだろう。
複数のプロットが交錯するスリリングな映画の構成の仕方もこの頃からすでに確立され、ストーリーテラーとしては秀逸な才能を発揮し続けるアルモドバルは『バッド・エデュケーション』で新たな一歩を踏み出したのではないかと彼がまさしく映画界への一歩を踏み出した作品を観ながら思う。
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