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バッド・エデュケーション

2005/4/21
La Mala Educacion
2004年,スペイン,105分

監督
ペドロ・アルモドバル
脚本
ペドロ・アルモドバル
撮影
ホセ・ルイス・アルカイネ
音楽
アルベルト・イグレシアス
出演
ガエル・ガルシア・ベルナル
フェレ・マルティネス
ハヴィエル・カマラ
ルイス・オマール
ダニエル・ヒメネス・カチョ
preview
 1980年、マドリード、映画監督のエンリケを少年時代の親友イグナシオが訪ねてくる。俳優をやっているというイグナシオはアンヘルと名乗り、自分とエンリケの少年時代について書いた脚本を見てくれと頼む。エンリケはその脚本を気に入り、再び訪ねてきたイグナシオを自宅に招待する…
 ペドロ・アルモドバルが自伝的要素を加味しつつ、2人の青年の間に渦巻く愛憎を描いた力作。今をときめくガエル・ガルシア・ベルナルが肉体をさらしたり、女装したりと様々に魅力を振りまいて、話題を呼んだ。
review

 欲望、それがこの映画のすべてを覆う要素である。映画の始まりは、エンリケの少年時代の欲望がよみがえることにある。少年同士の初恋の相手であるイグナシオが突然現れ、エンリケは怪しむけれど、その書いたものを読むうちに少年時代の思い出がよみがえり、エンリケの欲望もよみがえる。そして、そのエンリケの欲望は現在の時間にある出来事を駆動して行く。エンリケはイグナシオことアンヘルを欲し、その欲望に従って物事を動かして行く。
 この映画に含まれるあと2つの時間もまた欲望に動かされている。ひとつは、エンリケとイグナシオの少年時代、カソリックの寄宿学校でともに過ごす2人は恋に落ちるが、そこにはイグナシオに恋するマノロ神父という人物がいる。弱々しい少年の欲望を大人の欲望が凌駕し、2人の欲望を切り裂いてしまうのだ。もうひとつはイグナシオの本に描かれる数年前の出来事、これはアンヘルことイグナシオによってフィクションだと語られるが、女装のオカマとして登場するサハラことイグナシオの欲望(性的なものではかならずしもない)がこの時間を支配する。
 愛とか恋とかいったキレイごとではなく、欲望が物語を展開して行く。この物語を半自伝的だと語るアルモドバルには、常にそのような物語への欲望があるのではないだろうか。そして、欲望とエゴイズムと狂気とは常に接近したものである。欲望とは孤独なものであり、その孤独な欲望は容易にエゴイズムと狂気に結びつく。


-----ここからはネタばれ注意!!!!-----

 この作品は3つの時間の物語が、それぞれの欲望によって展開されて行くわけだが、そのすべてを支配しているのは現在の時間にいるフアンの欲望である。このフアンという男はいったい何を考えているのか。ただ自分の役者としてのキャリアのためにこれだけのことをしたのだろうか? それはありえない話だ。彼の欲望はいったいどこに向いていたのか。彼は映画の最後に「田舎町であんな兄貴を持つ苦しさがわかるか?」というような言葉を吐く。この言葉が真実だとしたら、彼を駆動していたのはその兄を抹消したいという欲望だ。彼の存在を、彼が存在していたということを完全に抹消すること、それを求めて彼は行動しているということになる。そして、それでもこの物語は辻褄が合う。彼は兄が頼る術のすべてを奪い、死後にはすべての持ち物を焼き払った。そして自分がその兄に成りすまし、エンリケの美しい想い出をも破壊しようともくろんだのだ。と。
 しかし、その説明は非常に空疎だ。その最後の言葉よりも重要に思えるのは彼が最後のシーンを撮影したあとに泣き崩れた場面だ。そこに感じられるのはフアンのイグナシオに対する愛、というよりは欲望である。彼は兄を抹消しようとしていたのではなく、兄を欲望していたのではないか。兄を欲望し、兄の死後は兄に成り代わることを夢想した。そのように考えるとこの渦巻く欲望が激しく火花を散らす物語にひとつの一貫性が見えてくるような気がする。
 それはつまり、この物語がイグナシオという一人の男を欲する3人の男の物語であるということだ。フアンとエンリケとマノロ神父、マノロ神父の欲望の矛先はイグナシオからフアンへと代わったけれど、それはフアンがイグナシオの地位に代わって入り込むことによってフアンの欲望が満たされるからだ。

-----ネタばれ終わり-----

 アルモドバルは初期には“狂気”を題材に、様々な映画を撮り、『オールアバウト・マイ・マザー』や『トーク・トゥー・ハー』では“孤独”をひとつのテーマとしてきたが、それらは実はこの“欲望”というテーマに包含されるものなのではないか。まず欲望があり、そこから孤独や狂気や、あるいは“愛”が生まれる。アルモドバルの人間の捉え方というのはそのようなものであるという気がしてならない。
 しかし、欲望を描くというのは非常に難しいことだ。単純に性欲や復讐欲という形で現れるものならば簡単だが、たとえばひとりの相手を全的に欲するというとき、それは“愛”といったいどこが違うのか? 欲する人間は孤独で、愛する人間は孤独ではないのか?
 欲望とは、人間が自分自身にも隠しているブラックボックスのようなものだ。それを描こうとすると、物語は漠然として見えにくくなり、そのメッセージはつかもうとするとヌルリとその手を逃れてしまうようになる。だから、アルモドバルは狂気や孤独と行った道具を使って、それを描こうとしてきていたのではないかとふと思う。そして、それらを使って自分の欲望というブラックボックスを切開したとき、この映画が出てきたのではないか。
 この物語が進むことでそれまでの映画の全体を再構成することが出来るように、この作品を見ることで“欲望”というキーによってアルモドバルのそれまでの作品を再構成することが出来るのではないかと思えてくる。

Database参照
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