| 3日間をバスの中で過ごす十人あまりの人々、黒人運動の一大イベントとして企画された100万人大行進に参加するという共通の目的を持っていながら、彼らは感嘆には打ち解けない。UCLAのパーカーを来た映画監督志望の青年X(スパイク・リー自身がモデルだろう)がカメラを向けることはその人々を不快にさせることも多いが、彼の行動は人々を少し近づける。しかし、ハリウッド・スターを気取る売れない俳優はゲイのふたりにあからさまな差別意識を露にし、隣に座った男の母親が白人だからといって彼と距離を置く。彼のこの行動が黒人社会内の差別/逆差別の構造をあからさまに示す。黒人社会とひとくくりにされるけれど、それは決して一枚岩ではなく、100万人大行進というのはそのばらばらな黒人社会を何とかまとめようというしい行動なのだということがわかる。
60年代に行われたという100万人大行進は公民権運動の一環として黒人が団結し、自分達の権利を白人社会に対して訴えるイベントだったと思うのだが、95年の大行進は黒人社会内部に向けて団結を訴えるイベントだったのだろう。このバスに乗った人々はその行進にたどり着く前のバスの中でその団結に少しずつ近づく。特に、旅の途中のメンフィスで拾った黒人の自動車ディーラー(黒人のことを“ニガー”と呼ぶ共和党員)への反感からその団結は強まる。
この作品はそんな地味な物語だ、非常に小さな物語を積み重ねることで、麻薬も銃もセックスも登場させることなく黒人社会を描いていく。犯罪をにおわせるのは父親が息子をつないでいる手錠だけだが、この父親と息子の関係も黒人社会にひとつの側面を非常にうまく表現した小さな物語になる。そして、敬虔なイスラム教徒の格好をした男、白人との混血の男、アフリカの太鼓を持ち込んだ初老の“オヤジ”、彼らの背景や関係が明らかになっていく中で、そこには小さな物語が次々と生まれ、一つ一つが小さな輝きを放つ。
スパイク・リーにしては非常に地味な作品だけれど、会話だけで十分に楽しませてくれる作品だ。スパイク・リーは黒人監督のリーダーとしてやはり犯罪やドラッグといった黒人社会の暗部を描いてきたが、こういう作品を撮っても面白い。私はこの人は結構繊細な人で、どこかウディ・アレンと重なるところがあるようにも思える。彼が黒人のために何かを訴える映画を撮らなくてもよい世の中が来たなら、ウディ・アレンのような作品を撮るのではないだろうか。
この作品にはユダヤ人のバス運転手も登場し、黒人と差別されることについて会話を交わすが、同時に白人として黒人の視線に恐怖を感じるともいう。ユダヤ人であるウディ・アレンと黒人であるスパイク・リー、典型的なニューヨーカーであるウディ・アレンと生粋のLAっ子のスパイク・リー、このふたりを比較してみるというのもなかなか面白いかもしれない。
|