| クレージーキャッツの時代劇は初めて見たが、まず追分の三五郎を無責任男にしてしまうという発想がすごい。大体次郎長ものというとまあ次郎長か石松が主役と相場が決まっているのだが、追分の三五郎が主役の映画として『次郎長外伝 石松と追分三五郎』という映画もあるくらい三五郎というのも人気のあるキャラクターだ。それをC調の無責任男にしてしまう。確かに三五郎は男前ということになっているが(三五郎は実は創作されたキャラクターで実際にはいなかった)、仁義の世界に無責任とはこれいかにという感じではある。
しかし、これを植木等がやるとピタリとはまるから不思議だ。時代劇という違和感もあっという間に感じなくなり、いつもどおりのクレージー映画になる。しかし同時にやはり次郎長ものでもあるのだ。
植木等は飄々と乗り切り、谷啓はドジをやらかす。このあたりはクレージー映画の面白さであるが、最終的には無責任が影を潜め、まっとうな任侠ものになる。ただこれは時代劇だからというわけではなく『くたばれ!無責任』以来の傾向であるのだと思う。無責任とC調で売り出した植木等とクレージーキャッツだが、『くたばれ!無責任』で無責任をくたばらせて以来、C調はあくまでも手段となり、植木等はC調で世の中を渡って行くしたたかな男になった。これは社会の急激な変化が大衆の鑑たるクレージーキャッツを変化させたもので、それはモチーフが時代劇になっても変わらない。流れ者の三五郎が、調子のいいことを言って次郎長という組織に入り込み、最後には気骨のあるところを見せてヒーローになる。それはモーレツ時代のサラリーマンが理想とする生き方のようにも見えるではないか。
クレージーキャッツは時代劇を結構作っているが、今から見るとこれはなかなか考えにくいことだ。今では時代劇というとまったくシリアスなものか、逆にパロディ化したものばかりで、時代劇というモチーフを使って正統派のコメディを撮ろうという発想はなかなかない。この作品が撮られたのは40年前のことだが、この40年の間に人々の生活から浪曲や講談といった時代物の物語を聞く機会は消え、時代劇も次郎長も遠い世界の話になってしまった。
今は時代劇といえば大河ドラマか水戸黄門、おじいさんだけが見るものだが、ほんの40年くらい前までは大人も子供も見ていたはずだ。現代は江戸あたりの文化が見直され、落語ブームが訪れ、徐々に講談などにも目が向くようになって来ている。この江戸ブームがもう少し続けば、浪曲やら浪花節やらも見直され、次郎長もポピュラーになり、時代劇も復活して、スマップがこの作品をリメイクしたりするのかもしれない。
まあ、そんなことにはならないと思うが、時代劇というのは日本映画に独特のジャンルであり、海外でも知名度があるものだ。ハリウッドで時代劇が作られる今、マカロニウェスタンでハリウッドの西部劇が復活したように、日本の時代劇が復活するのも夢物語ではないのかもしれない。
|