| 人間の知りえることというのは限られていて、私達はいつも知っていなければいけないことを知らない。南アフリカにアパルトヘイトがかつてあり、それが90年代になくなり、ネルソン・マンデラが大統領になった。それくらいのことは大体の人が知っていて、南アフリカがそもそもオランダ領で、植民者である彼らは“アフリカーンス”と名乗り、独自のアフリカーンス語を話していて、アパルトヘイトの間はひどい差別と人権侵害があったということは結構知られて入る。
しかし、アパルトヘイトが終わったあとこのように真実和解委員会というものが開かれ、白人と黒人の間の和解を模索しようという試みが行われたということをどれくらいの人が知っているだろうか。私はそのような試みのことはまったく知らなかった。もしかしたら、頻繁にニュースが流れた1995年当時にニュースでちらりと耳にしたかもしれないが、もしそうだとしてもそれは完全に忘却の彼方へと押しやられてしまっている。
しかし、私はこの映画を見てこれは知っておかなければならないことだと気づく。そして、それが起こってから十数年後に、私も少しは物がわかるようになってから知ることができてよかった。この南アフリカの2年間に渡る営為は人類史において語り継がれなければならない出来事だ。そのような出来事を知ることができて私はうれしい。
この真実和解委員会というのは、黒人の委員会が人権侵害の加害者と被害者から証言を聞き、その加害者の行為が政治的なものであった場合には恩赦を与えるというものである。政治的なものとは、その人権侵害が上官からの命令によるものであり、それを実行することが政治的な目的にかなっているということである。
これはニュルンベルク裁判以降、戦争犯罪の責任をめぐって戦わされる議論の焦点となり続けている事柄である。有名なのは、ユダヤ人を絶滅収容所へと送る責任者であったアドルフ・アイヒマンが逃亡の末つかまって「命令に従った」だけだと主張した裁判で、結局アイヒマンは有罪となるが、その裁判が行われたのはイスラエルだった。これについてはハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン」に詳しいが、結局命令に従って残虐行為を行った当事者の責任を問えるのかどうかという問題だ。
この問題は本当に根が深い。この作品は、その問いに対して「赦すこと」という回答を提示する。被害者が加害者を「赦す」ことでその問題を回避するのだ。アメリカ人のリビングストンはそのような解決法が実効的であるとは想像できない。2度目の聴聞会が終わり、アナとリビングストンは普段吸わないタバコを吸う。タバコと酒に頼らなければ正気を保てないくらいの出来事が起きていたことを知ったわけだ。しかしこの土地の黒人達には驚くほどのことではない。この想像力の限界を超える出来事に出会って初めてリビングストンは加害者に償わせることの不可能性を知る。償わせることによってはこの問題は解決しないのだ。
だから“ウブントゥ”が必要になる。“ウブントゥ”とは「あなたを傷つけるものは私も傷つける」ということ、そう考えるなら、加害者はすでに傷ついており、さらに加害者を傷つけなおすことは自分自身がさらに傷を負うことである。相手を本当に「思いやる」ことができたなら、相手を赦せるはずだ。「思いやる」とは相手の気持ちになること、想像力を働かせて他者との間にある壁を乗り越えることだ。もしそれができなたら、相手を赦せるはずだ。
しかし、それは本当に難しい。
アナの農場の古株アンダーソンが大事な杖をリビングストンに託したとき、私はすごく感動した。先祖から伝わるその杖は、ある意味では彼の存在基盤なのだ。彼はその杖を受け継ぐべき息子を奪われ、しかし奪った当事者を赦し、その杖を縁もゆかりもないアメリカ人に託す。それは彼が本当に赦したのだということを象徴する。彼は過去を振り返るのをやめ、未来を見始めたのだ。彼は自分と自分の先祖とそして息子の存在をこの世に残すためにリビングストンに杖を託す。それは人間の本能的な欲求、人間は自分の肉体が滅びることよりも自分の存在が忘れ去られることを恐れるものだ。肉体はいつか滅びる、しかし記憶は受け継がれる。杖に託されたアンダーソンとその一族の記憶はリビングストンに受け継がれ、本と映画を通して抽象的な形ではあるがわれわれにも受け継がれた。
赦しと償い。償わせてくれと訴える元警官は心の底からそう思っているのだろう。果たして彼のその気持ちがずっと続くかどうかはわからないが、彼は赦しが償いに対して与えられるものだということを体現している。真実を告げるというわずかな償いで、彼らは加害者を赦す。それは彼らが報復として相手を傷つけることが再び自分を傷つけることになることを知っているからだ。それはまさに報復の連鎖、憎しみの連鎖を生む。
傷つけ、傷つけられるという不毛な繰り返しを誰かがどこかで止めなければならない。そのために必要なのが赦しを彼らは与えるのだ。
なんだか映画の内容についてはほとんど書かずに終わってしまったような気もするが、この映画は作品からあふれ出てくるものがあまりに多い。そのあふれ出てくるものをただあふれるだけにせず、自分の記憶に留め置くために私はこれを書かなければならなかったのだ。限られた記憶のその中にこの出来事がとどまるように。怒りに震えたり、憎しみを覚えたときに“ウブントゥ”と唱えられるために。
この原作となったアンジー・クロッグの“Country of My Skull”が翻訳されていないのは残念だ。映画の中に時折出てくる彼女自身の言葉は詩人らしいリズムがあり、味わい深い。がんばって原著で読んでみようかなぁ…
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