| アルモドバルはやはりすごい映画作家だ。彼は『セクシリア』から一貫して自分で脚本を書き、監督しているわけだけれど、その力は作を重ねるごとに増している。
この作品はまず脚本がすばらしい。スタートは強烈な風が吹き荒れるラ・マンチャであり、そのさびしい雰囲気の中にボケた伯母が住んでいる。彼女は目も見えないのに姪たちのためにお菓子を用意したりして、ちょっとした不思議が用意されていたりする。そして、隣家にはヒッピーの母親が失踪してしまった幼馴染がいる。この故郷からバルセロナへの道には巨大な風車が林立する荒野が広がり、それはアイムンダたちが住む都会と故郷との距離感を表現する。彼女は伯母ともアグスティナとも親しいが、そこには無視できない距離が存在するのである。
そして、事件は故郷とバルセロナで別々に起きる。故郷では伯母が死に、バルセロナではライムンダの娘パウラが父親のパコを殺してしまう。そこからライムンダは持ち主に内緒でレストランを開くことになり、それがうっかり繁盛してしまうのだが、このあたりの展開力にアルモドバルのストーリーテラーとしての力を感じる。ただ悲惨で重苦しい物語になることを避け、そこにさらりと希望をもぐりこませるのだ。どうなるんだろうと観客に思わせながら、そのそこに脈々と流れる“女性”というテーマを観客に問う。その構成が見事なのだ。
“女”とは何か、“母”とは何か、男に虐げられる存在でありながら、力いっぱい子どもを守る。そのためには強かさも必要であり、時には男をだましてわが身を守る。その中で女同士も反目したり、和解したりするが、最終的には女同士は協力し、男たちに対抗するのだ。アルモドバルはそんな女たちに囲まれ、彼女たちと価値観を共有するようにして生きてきたのではないか。この作品の冒頭のお墓のシーン、たくさんの女たちが墓の掃除をする中、たった一人だけおじさんがいた(ように見えたが、実はおじさんに見えるおばさんかもしれない)が、そのおじさんこそがアルモドバル自身の姿なのではないだろうかなどと考える。
映像のほうはいかにもアルモドバルという感じであまり変わらない。特にペネロペ・クルスが登場しているシーンの赤を中心とした色合いやものがやたらと押し込まれているよいな画面の印象はそれこそ『セクシリア』の頃から変わらないものだ。そしてそこに極端なクロースアップを織り交ぜて生々しさを出し、ごくまれに真上からのショットなどをはさんで映像に変化をつける。この作品はそれにラ・マンチャの灰色の風景を付け加えることで対比を際立たせてもいる。
ペネロペ・クルスもハリウッドでちゃらちゃらした作品に出るより、スペインでこのようなしっかりした作品に出たほうが力を発揮できる年齢になってきたようだ。この作品でも彼女はいかにもな妖艶さを発揮してはいるが、アルモドバルが執拗に映す後姿では大きいお尻が少し垂れ、彼女の年齢とライムンダの疲れをそのお尻だけで表現しているのだ。もちろん彼女自身はハリウッドをあきらめたわけではないだろうし、ハリウッドでもしっかりした作品に出ればいつかはアカデミー賞だって取れるだろう。ただのトム・クルーズの元妻ではなく、トム・クルーズを利用してのし上がったくらいの風評を得られるようになれば、アルモドバルっ子の面目躍如だろう。ハリウッドではいまだにラテン系美女といえばただ妖艶さだけが注目されるが、ペネロペ・クルスはその妖艶さに年齢が重なったときに出る甘ったるいような匂いを表現できる女優になれるのではないか。アルモドバル作品に出ている彼女を見ていると、そんな過度の期待をしたくなる。
ボルベール(volver)はスペイン語で「帰る」という意味で、もちろんここでは故郷への帰還、死者の帰還を意味し、ライムンダが歌う歌の歌詞でもあるわけだが、もしかしたらペネロペ・クルスのスペインへの帰還もかけているのかもしれないなどとも考えてみた。
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