| この物語が非常に秀逸なのは、それが“リアル”であるからだ。それはこれが現実に根ざした話であるとか、実際に起きた事件を元にしたものということではなく、これが現実にありうる話であるということがひしひしと伝わってくるという意味だ。
まず、この映画のタイトルクレジットの死体写真のインパクトはすごい。これは明らかに作り物ではなく現実なのだということが説明がなくともわかる。銃痕は時には空虚な空洞であり、時には周囲に痛々しい傷を残す。しかし、それがその人の命を奪ったということは明らかだ。その穴から人は血を流し、命をも流してしまったのだと。それは非常に「きつい」映像だ。そのようにして現実に人が死んでいるという事実をつきつけられることは胸が苦しくなるほどにきつい。
だから、この作品は本編が始まる前に観客を打ちのめしてしまうのだ。これから起きることは今、写真にあったことと同じことだと予告され、身構えながら作品を見ることになる。それはある意味では観客を試すことでもあるのだが(もし、その効果が強すぎれば目を背けてしまう)、同時に観客を引き込むことでもある(そのテーマ性に沿って映画を見させることが出来る)。そして、映画の本編もまた非常に「きつい」ものだ。
それは、この作品がまず、ひとつの殺人の意味が問われる映画だからだ。殺人は映画の序盤に起きる。ボスに命じられたストライクが銃を持って殺しを実行しに行くが、怖気づいて近くのバーに入る。そこで偶然に兄に会い、標的であるダリルについての悪い噂を兄に話す。これが真実か嘘かはわからないが、彼はそれを兄にいうことによって自分の行為を自分に対して正当化しようとしているのだろう。兄のビクターは弟に同意し、自分の知り合いに頼んでころさせてやってもいいといい始める。ストライクはそれに勇気付けられたのか、バーを出てダリルに話しかける。その結末は明かされないまま、次のシーンはダリルの殺害現場に警察が駆けつけるシーンになる。
この展開だとストライクが殺したと考えるのが普通だが、肝心のシーンが隠されていることに一抹の疑問が残る。そして、しばらく後のシーンでストライクはダリルと通りで偶然に出会い、その後ビクターが自首するのだ。
その後の物語はその殺しの真相をつきとめようとする刑事のロッコとストライクを中心に展開されて行き、それはそれで面白いのだが、本当にこの映画がすごいと思うのは、その殺人に複雑な意味が絡まって行くからだ。
貧困地区に住む黒人がそこから抜け出すには、ストライクのように違法なビジネスに手を出すか、ビクターのように死ぬほど働くしかない。どちらにしても非人間的な境遇に置かれることは間違いないが、彼らには本当にそれしか方法がないのだ。しかし、ストライクのように違法なビジネスに手を染めればいつかはトラブルを招くし、ビクターのように死ぬほど働けば体を壊すか、精神を病んでしまう。
ビクターが殺したにしてもストライクが殺したにしても、それはこのような境遇にさらされ続けたその結果だといわざるを得ないだろう。人間の限界を超えた忍耐を強いられた結果彼らが何をしてしまうのか、それをこの映画は見事に描き出している。
ブルックリンでは次々と殺人が起き、警察もまさにこの映画に登場する警官たちのようにその殺人を軽く観ているだろう。しかし、なぜ彼らは殺しあうのか、それを考え始めると、そこには非常に深く暗い淵が潜んでいることがわかる。多くの人々はその淵を覗かないようにし、自分たちとは関係ないこととして済ませようとする。しかし、それは関係ないことではないのだ。この映画にも登場する白人の金持ちのガキたちのように間接的にその殺人にかかわっているのである。この映画はそのことを人々に思い知らせる。観客は目を背けたいことに無理やり目を向けさせられる。その意味で非常に「きつい」映画なのである。しかし、そのようにしてきつい目を見ることは非常に重要だ。そこで語られているのは私たちが人間として決して忘れてはいけないことなのだから。
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