| 映画の始まりは白黒の映像。うそみたいな幸せな家族に、嘘みたいに素直な娘、これはきっと主人公の見ている夢か回想シーンに違いないと思うのだが、実は現実で、いわゆるプロローグにあたる部分だとわかる。この部分が白黒な部分はただひとつ、岡田准一の登場シーンを劇的にするためだ。この白黒がカラーになるのはまさに岡田准一が登場するそのシーン、白黒で登場した彼がカラーになることで華々しく画面に現れる。
このことからもわかるようにこの映画は完全に岡田准一のための映画だ。主人公は一応堤真一演じる“おっさん”だが、彼はあくまでも“おっさん”であり(鈴木一という名前は一応あるが、この名前は“普通さ”を端的に表現しただけで便宜的なものに過ぎない)、岡田准一は“スンシン”とう「変わった」名前を持っているのだ。 つまりこの映画においては、スンシンだけが個性を持つ人間であり、そのほかはいわゆる「サラリーマン」や「高校生」という一般的な存在に過ぎない。
だからこの映画における行動は、スンシンのもの以外はすべてステレオタイプ化されたものに過ぎないのだ。サラリーマンのおっさんは運動不足でいくじがなく、高校生は暇をもてあましてどうしようもないことをする。しかしスンシンがかかわるとすべてが変わる。おっさんはヒーローへと変わり、高校生たちも正義漢になる。
それもこれもすべてスンシンに起因するものだ。スンシンの“個性”が彼らに作用して彼らの凡庸さを覆すのだ。
ただ、このスンシンというのもひとつのステレオタイプではある。不幸な過去を持ち、恵まれない家庭に育った孤独な少年。しかし、愛情に恵まれていないわけではなく悪事には走らない。そのことが誰もいないアパートの部屋と彼がペットと戯れる仕草にしっかりと表れている。アウトローなヒーローのステレオタイプ、その大元はもちろんブルース・リーである。
そう考えると、彼は須藤元気演じる石原と対極にある存在だということがわかる。石原のほうは金銭的には恵まれているが、愛情には恵まれず、社会的な成功を収めるかもしれないが、内部ではねじくれている。
この作品ではスンシンが完全なる善で石原が完全なる悪という二分法で論じられてしまったけれど、善なるスンシンのうちにある捻れと悪なる石原のうちにある歪みを描くことができればそれなりの作品になったのではないか。“おっさん”という触媒を通して結びついた二人が互いに作用しあい、新たな展開が生まれたらそのときようやく物語が始まるのだ。
その意味でこの映画は物語ですらない。ただどこにでもある寓話を組み合わせただけのプレハブ小屋みたいなものだ。こんな映画はいくらでも作れるが、いくらみても何も残らない。5分後にはすべてが幻にように消え去ってしまう類の映画だ。岡田准一が見たいならいいだろうが、それ以外の人には時間つぶしにしかならない。
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