| スティーヴン・キングはやはり「怖さ」を表現するのが非常にうまい作家である。映画を見ながらその原作者について論じるのはどうかと思うが、この作品を観ていると、その怖さは映画によるものではなく、スティーヴン・キングの原作によるものだと思えてくる。それは、この怖さが人の“心の闇”から生まれてくるものだからだ。スティーヴン・キングの作品はもちろんホラーやサスペンスと呼ばれる作品が多いわけだが、そうではない作品でも怖い。『スタンド・バイ・ミー』にも怖い部分が多分にあるのだ。
この作品で観客を恐怖させるのは、人々の心にぽかりと開いた心の闇である。それは一人の人間のエゴによって他の人間の心にできてしまった闇である。そしてそれはつまりわれわれ人間が誰でも人の心に作ってしまう可能性のある闇なのである。そしてその闇の中にはホラー映画によっても描けないような恐ろしい何かが潜んでいる。人間は自分自身の心の闇と何とか折り合っていかなければならないわけだが、同時に自分が作り出した誰かの心の中の闇に潜むその何かを怖れもする。
この作品は登場する人それぞれが心に闇を抱え、それと折り合っていかなければならないという悩みを抱え、同時に自分が作り出してしまった誰かの心の闇を怖れてもいる。それが非常にうまく描かれている。最大の焦点である“父の死”を巡る闇の物語はドロレスとセリーナの親子の間に大きな壁を築く。それは2人がそれぞれ自分自身の心の闇と格闘しているからである。ドロレスは自分の闇によって娘が傷つかないようにと懸命であり、セリーナは自分の心の闇と折り合って行くので精一杯なのである。そして、それは2人だけではなく、周りのあらゆる人々に当てはまる。
この映画について語ることは難しい。それはこの物語自体が全てを語っているからだ。物語はゆっくりとすすみながらしかし着実に観客の心をつかんで行く。ひとつの驚きや意外な展開といったもので観客を捉えるのは比較的簡単だが、この映画のように物語そのものによって観客の心をつかむというのは存外難しいものだ。じわじわと観客の心にしみこんでくるのは、その物語の重みであり、ドロレスの愛である。これを“愛”の物語というのは簡単だ。しかし、それでは何も説明していることにはならない。この物語が問題にしているのは“愛”そのものであるのだから。愛とエゴとが一人の人間の中でどのように混ざり合い、どのように区別されるのか。
この映画を語ろうとすればするほど言葉は抽象的で曖昧なものになって行く。漠然とした思考の中で、ひとつ言えることはこの映画が揺れ動く人々の物語であるということだ。それはつまり全ての人間の物語であるということだ。
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