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この映画、序盤は少々退屈である。いつもどおり海への思い入れを冒頭で映像に載せ、たこだか気球だかに吊り下げられた浮遊感のある映像を挟んで、観客を惑わすが、それによって何を言おうとしているのは明らかにはならない。しかし、そこに愛人カルラが現れ、彼女と一夜を過ごした翌朝に、その部屋に母親の幻が現れるあたりからグーっとおもしろくなっていく。
この母親の出現はかなり突然だ。最初は現実の続であるように作られたシーンであるが、数秒でそれは幻想とわかり、幻想、あるいはグイドの記憶のシーンへと連なって行く。この現実と幻想との連続、それがこの映画の最大のテーマであり、仕掛けである。このようにして現実と幻想がつながるシーンがこの後次から次に登場し、その幻想と現実との行き来においてこの映画は展開されると言っていい。
その中でテーマとなるのは、現実における映画制作、妻(や愛人)との関係、幻想の中での子供時代、そして女たちとの関係である。そして、映画制作はその映画のテーマとして自分自身の子供時代を扱うことによって子供時代の幻想とつながり、妻(や愛人)との関係との関係は幻想における女たちとの関係とつながって行く。
そしてその中で重要とはいえないかもしれないが、ポイントとなるのはサラギーナという大女の存在である。このサラギーナはグイドの子供時代の思い出の中に登場し、彼の幻想上のハーレムに登場し、映画のスクリーンテストにも登場する。この大女はフェリーニが子供時代に実際に出会った大女の記憶から作られているだろうし、大女はフェリーニにとってある種のセックスの象徴であり、多くの作品に登場するのだ。そして、それらの作品の中でもこの作品において大女は大きな意味を持つ。彼のハーレムを構成するのは現実の世界で彼のまわりにいる美女たちであるのに、その中にこのサラギーナが含まれているのだ。一般的に見ればちっとも美女ではなく、むしろ醜い女であるこのサラギーナにフェリーニはひとつの役割を与えているのだ。そのことが何を意味するのかはなんとでも解釈できると思うが、一番大きいのは、彼の(グイドの、そしてあるいはフェリーニの)精神が常に子供の頃の精神と常につながっているということだ。彼はいつまでも子供のままであり、それが自分を守ってくれる女たちに囲まれたハーレムという幻想を作り出し、その中に暖かく強い母性の象徴であり、同時にセクシャルな対象でもある大女が含まれるのだ。
このグイドなる人物は『青春群像』で最後に一人都会へと旅立ったリカルドであり、『甘い生活』のマルチェロであり、『フェリーニのローマ』のフェリーニ自身である。それらはフェリーニが語ろうとする自分自身の分身である。それが意味するところはそれが必ずしも事実とは一致しないということだ。フェリーニは嘘つきとして有名で、自分自身の過去についてのエピソードは語るたびに違っていたという。この『8
1/2』の主人公グイドが「嘘つき」と度々ののしられるのも、フェリーニの自嘲的で同時に得意げな自己の投影であると思うが、そのようにして自分自身の姿を映画に描くことでフェリーニはさらに観客を幻惑する。
そして、この映画のラストシーンは、大道芸人の後を少年時代のグイドがついて行くという映像ではじまる。これはフェリーニが好んで語る子供時代の思い出の反映である。それはフェリーニが子供の頃、学校を抜け出して大道芸人の一座に勝手についていき、数日後に帰ってきたというエピソードであるが、家族などの証言からこれは完全に嘘であることがわかっている。
しかしそれは本当に嘘であったのか。この作品の中でルイザはグイドに対してグイドが「真実のように嘘を言う」といい「あなた自身には見分けがつくのか」と聞く。それは彼が自分自身でついた嘘と真実の見分けがつかなくなってしまっているのではないかということを語っているわけだが、これはフェリーニがさらに観客を幻惑しようという戦略なのか、それとも彼自身の素直な気持ちなのか。
どちらにしても、この作品は最終的に何が現実なのかわからなくなるような仕掛けがなされている。この映画に登場した全ての人(現実と幻想を問わない)がいっせいに登場する最後のシーンはいったい何なのか、この映画に描かれているもの全てが作り物ということなのか。 観客はただ現実と幻想とフィクションの間の間隙に置いてきぼりにされ、途方に暮れるばかりなのだ。
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