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「道」という言葉は人生の比喩として使われることが多い言葉だ。まっすぐな道を進むような人生、曲がりくねった道を進むような人生、そして同じ道をぐるぐると回るような人生。ザンパノのような大道芸人/旅芸人の人生とはまさに同じ道をぐるぐると回るような人生であり、そしてまたその人生は同じ路程をぐるぐると回ることで費やされる。ザンパノとジェルソミーナがふたりで入った料理屋もザンパノにとっては何年かに一度訪れる場所であり、途中で出会う別の旅芸人「キ印」も何年かに一度出会う人間である。
彼は、そのような同じ道をぐるぐる回るような人生を送っている。それは彼が物語の最後でもやはり胸の筋肉で鎖を切るという芸をいつまでもくり返しやっているということからも明らかだ。そして、この映画が生みのシーンで始まり海のシーンで終わるということも、その循環性を暗示している。
そんな彼の人生にジェルソミーナという異質なものが入ってくる。最初は彼女を繰り返されるようそのひとつ、入れ替わり立ち代りやってくる単なる助手の一人と考えていた。しかし、彼女は他の女たちとは少し違った。彼女のザンパノに対する態度が他とは違ったのだ。ザンパノは最初にジェルソミーナに芸を教えるときに、木の枝を鞭にしてぶつことで教え込もうとしたことからもわかるように、恐怖によって助手たちを支配してきた。しかしジェルソミーナは彼に恐怖を抱きつつ、彼に愛着を持ち、さらには芸によろこびを見出したのだ。
彼女がザンパノから離れないのは、自分がザンパノの役に立つと考えているからだ。それを愛と呼ぶかどうかは自由だが、彼女はそれを「キ印」から教わり、それによってザンパノを救おうとしていた。「白痴」的なジェルソミーナはある意味ではイエス・キリスト的な「キ印」が差し伸べた救済の手を、純粋な仲介者としてザンパノに差し伸べているのだろう。ザンパノがその手をとり、罪を認め、それを悔いれば罪は濯がれ、彼は同じ道をまわる人生から逃れられたかもしれない(ここには、キリスト教を常にモチーフとし続けるフェリーニらしさが表れる)。
しかし、ザンパノは変化を拒む。自分の生活がジェルソミーナをはじめとする自分以外に人々によって変えられることを怖れ、それから逃げようとするのだ。彼は今の生活に不満を覚えながら、その恐怖のためにその生活から逃れることが出来ない。それが彼の悲劇であり、彼の人生が永遠に同じ道を巡る理由なのである。ジェルソミーナは彼がその循環から逃れるチャンスだったのかもしれない。しかし彼の恐怖心はそのチャンスを手に入れることを許さず、彼は同じ道に戻る。それは私たち当たり前な人間の誰もが経験することである。
ラストシーンの彼の慟哭にこめられているのは、そのような選択をしてしまった自分自身に対する落胆と、その結果として自分がやってしまったことに対する後悔/非難である。しかし、それでもやはり彼は同じ道を歩き続けるだろう。彼にはその「道」しかないのだから。
そのジェルソミーナだが、私には彼女がチャップリンに見えて仕方がなかった。彼の表情、仕草、おどけた行動、精神的には「白痴」的な存在であるが、そこには緻密に計算された「白痴」であるチャップリンの動きが見える。
フェリーニは役者としてのチャップリンに敬服していた。だから、彼はチャップリン的なものをジェルソミーナに注ぎ込み、それによって彼女は普遍的なキャラクターになったのではないか。彼女の不思議な表情や笑顔も、チャップリンを想像してみればその意味がわかるように思える。憂いを含んだ笑顔、それは投げかけられるものに罪悪感や後ろめたさにも似た複雑な感情を呼び起こすものだ。
チャップリン的なものによって演じられた「白痴」的な純粋さ、それに答えることが出来なかった当たり前の人間であるザンパノ、その構図は救いがたく、あまりに悲しく、あまりに辛い。そしてそのザンパノはわれわれ自身の姿である。
退廃的で辛辣で純粋なこの映画については、いくら語っても語り足りない。あるいは何も語ることなど出来ない。
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