形式上は『サラリーマン忠臣蔵』の続編ということになるが、事実上は正編と続編がセットで一本の映画という感じで、正編の最後も、続編に向けてまさに「これからやるぞ」と気を持たせるような終わり方にさせている。しかも公開日を見ても、正編が昭和36年の正月に向けた35年の年末公開で、続編はそのきっかり2ヵ月後の公開になっている。ということなので、出演者も正編から引き続きの豪華キャストで、三船敏郎もしっかり出演している。
そして、話としては正編よりもこの続編のほうがまとまっている印象だ。とにかく物語を復讐劇に集中させて、しかもそれを現代のビジネスのフィールドで果たそうとする。それはまさに「サラリーマン忠臣蔵」の看板どおりのプロットである。正編では惚れたはれたの話がかなりのウェイトを占めることで主プロットのほうの濃度が薄まった感があったのとは対照的で、主プロットがぐいぐいと映画を引っ張っていく。
それでももちろん、惚れたはれたの話も継続され、それが主プロットにも絡んでいく。この物語は忠臣蔵をモチーフとした忠義の話であるはずなんだけれど、よーく考えてみると、惚れたはれたの男女の関係に動かされているのかもしれないとも思うのだ。結局、最終的に物事を解決するのは愛情によるつながりだと、そう言っているように思えてならない。
正編ではそれぞれの個人がそれぞれの感情にしたがって動くというドライな印象があったけれど、この続編を見ると、そのようにばらばらだった個人がどこかでひとつにまとまっていく感じが見て取れる。そしてそれは忠義や大義といった核によってひとつにまとまるというよりは、それぞれが他の誰かに対して持っているつながりによってまとまっているように見えるのだ。そして、それは忠義でも損得でもない感情的なつながりであるのだと思う。
もともとの忠臣蔵が主君への忠義を果たす“忠臣”の物語なのだとしたら、この映画はその物語からは外れて行っている。しかし、現代にそんな“忠臣”の物語をやってみたところで受けるはずもなく、このような個人的なつながりの物語になるのは必然だったのだと思うのだ。
しかし、だとすると忠臣蔵が今も人々に受けるのはなぜなのだろうか、と考えてしまう。亡き主君のためにという旗印よりも、それに向かって一丸になる赤穂浪士たちの結束とか友情とか、そういうものが受けるのだろうか?
ともかく、この映画は正編と続編で一本の映画ではあるが、そこには微妙な違いもあるということである。
配役という点でも、多少の変化を見ることが出来る。一番大きいのは登場する女優の問題である。正編では新珠三千代が主人公のひとりとして登場し、それに次ぐのが司葉子となっていたが、この続編では新珠三千代は後ろに退き、正編ではほんの端役で登場しただけだった草笛光子が中心になってきて、司葉子は今回も二番手という位置だ。
私としては新珠三千代はひとりで看板を張れるが、司葉子や草笛光子ではちょっとつらいという印象があるから、このやり方は腑に落ちる。そんな中でも、草笛光子はなかなかいい味を出していて、ここも正編と続編で変化を感じられるところだ。
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