最初に死が予告されることから、パーティーが行われる船上で謎の死を遂げて、その犯人探しをすると言うのがプロットなのだろうなぁ、と予測して観始めるが、船に乗っている人々は、どうでもいいような話を延々と繰り広げ、とくに楽しそうもない娯楽に没頭し、まったくスキャンダラスでもなんでもない惚れた腫れたの話を繰り返すばかりで、なかなか肝心の殺人が起こらない。
もちろん最後には殺人は起こるわけだけれど、それまでに見ていて意味があったことといえば、その頃が禁酒法時代だったということを思い出したことと、チャップリンのちょっとしたゴシップを知ることが出来たことだ。
実際、今この事件について知って、興味をそそる人物はチャップリンだけである。この直前に『巴里の女性』を撮っていて、16歳の少女を妊娠させてしまったとか、そういうネタが出てきて面白い。しかし、どう見てもわれわれのイメージするチャップリンとはかけ離れていて、そこに何かの共感を持つことは難しい。
あとは、キルステン・ダンストに興味をもてればいいのかもしれないけれど、ちょっとね。
ということで、なぜこの映画が面白くないのかと考えてみたところ、なんと言っても“群像劇”という名のもとにちっとも視点が安定してこないということがある。“群像劇”とはもちろん特定の主人公が存在せず、様々な人の視点が導入されている劇のことだから、ひとりの視点にとどまらないことは当たり前なのだがそれでもどこかに必ず焦点があるものだ。典型的にはひとつの事件で、この映画では殺人事件がその焦点になるはずなのに、実際は登場人物のそれぞれがそれぞれの思惑を抱えていて、そしてただそれだけで、それらの思惑が殺人という一転に収束していかない。したがって、ここには物語が生まれず、ただただどうでもいいようなエピソードの寄せ集めになってしまうのだ。つまりこれは“群像劇”ではなく“群像”でしかなく、“群像”とはつまり、われわれが生きているこの社会そのものでしかない。
つまりこの映画はちょっと違う時代の、自分とはまったく無関係の人の、その人にしか関わりのない出来事を、ただそのまま見せているだけであって、そんなものを見ても面白いわけがないという代物だ。まあ、ハリウッドの人には多少は興味があるのかも知れないけれど、私たちにはまったく何の関わりもない。
そしてもうひとつ、登場するキャラクターに面白みがないというのもある。どのキャラクターも個性がない。ハリウッドにいるというだけのただの退屈な人たちなのだ。
そんな中、唯一可能性があるように見えたのはロリーである。このロリーというキャラクターは他の人たちと違ってハリウッドに染まりきっておらず、観客の共感を得やすいキャラクターになっている。演じているジェニファー・ティリーという女優さんも地味だけれど、チラホラと脇役で出ているのを見かける(94年に『ブロードウェイと銃弾』でアカデミー助演女優賞にノミネートされている)人で、なかなか味があっていい。
だから、思い切って群像劇をやめて、このロリーを狂言まわしのように使った、プロットのしっかりしたドラマにすれば、まだ見れたんじゃないかなぁ…と思う。
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