オリジナルとほとんど変わらないように見えるが、決してそうではない。オリジナルが完全に「恐怖」のみを追求しているのに対して、カーペンターは「人間性」なるものを付け加えていく。ホラーに「人間性」が入ってくることがそもそもどうなのかという気もするが、そこは鬼才と呼ばれるカーペンター、見事にオリジナルと違う味わいを出している。
そして、それと同時に主プロットである「子供たち」が何者であるのかという謎解きに並行するように伏線を用意していく。その中でも一番重要なのはひとりが死産であったという出来事である。オリジナルにはそのようなエピソードはなく、彼らはどこまでも完璧なのだ。
その死産という事実と、その死産した赤ん坊をバーナー博士が誰にも見せていないという事実がのちのちへの伏線になっていくのだ。死産という事実は「子供たち」が9人という中途半端な人数であるということにつながる。そしてその相方を失った子供デヴィッド(オリジナルでは主人公である医師の子供がデヴィッドだったはずだが、この作品では医師の子供はマーラである)が物語の重要な鍵を握っていくのだ。それはそこに「人間性」の問題が入り込んでいくということである。
もちろん、そのように人間性などというものが入ってくることでホラーとしての恐ろしさが減ずるということはある。それをカーペンターはグロテスクな人間の死にざまや、特殊効果で補っていこうとするのだが、それはあまり効果はあげず、怖さという点で言えばオリジナルのほうがうまく作られていると思う。
だから、ホラーファンやカーペンターファンにはこの作品の中途半端さが目に付くのだろうと思う。カーペンターも中途半端なヒューマニズムに堕してしまったかと。
しかし、彼がここで唱えているのはヒューマニズムだろうか。カーペンターは姿は人間であるけれど、その中身は他者/異人であるようなものを繰り返し描いてきた。そこに表れてくるのはヒューマニズムがいうところの「ヒューマン」とは果たして何なのか。ということだ。「隣人を愛せ」と聖書は言うが、「隣人」とは果たして誰のことをさすのか。
結論を言ってしまえば、カーペンターは常に個人的なレベルでしかものを語らない。彼の物語はすべて究極的には個人の問題でしかないのだ。個人のレベルを超えるとしてもせいぜい「愛する人」のためである。「国のため」とか「人類のため」なんてことは決して出て来はしないのだ。
この作品でもそのことは徹底されている。そこには「ヒロイズム」などというまやかしはなく、生々しい生の真実だけがある。
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