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生きものの記録

2002/11/15
1955年,日本,113分

 
            
     
 
 家庭裁判所の参与員をやっている歯科医の原田のもとに裁判所から電話がかかってくる。今回の懸案は原水爆と放射能に対する恐怖から、全財産を売り払って家族全員でブラジルに移住しようとする工場主の中島老人を、家族が準禁治産者に認定してもらおうと家族が訴えたというものであった。精神錯乱でもない老人の対処に裁判所は頭を痛め、さらに老人には何人もの妾とその間に作った子供もいて…
 三船敏郎が老人役で怪演を披露する社会派ドラマ。一本の映画で扱うにはテーマが大きすぎた感があり、興行的にも成功しなかったが、これも黒澤のひとつのチャレンジであり、思想的な面が伺える作品ではある。
監督 黒澤明
脚本 橋本忍
    小国英雄
    黒澤明
撮影 中井朝一
音楽 早坂文雄

出演 三船敏郎
    志村喬
    千秋実
    三好栄子
    東野英治郎

 

 

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 この映画の評判が今ひとつ芳しくないのは、プロットが今ひとつだからだろう。時代としては第五福竜丸事件なんかがあって、原水爆に対する意識が盛り上がっていたころで、このようなテーマが取り上げられることは必然的でもあるし、それだけ面白いものになる可能性もあった。しかし、この映画はその原水爆を正面から描いたものではなく、人間の「狂気」という問題を原水爆という最も切迫した問題を使って描こうとしたものだ。
 しかも、その狂気の捉え方が今ひとつはっきりしない。狂気と正気の境のあいまいさとかいうことではなく、人間が狂気へと落ち込んでいく過程を淡々と描いていく。それは題名が暗示するとおり一種の「記録」であり、ドラマではない。
 この作品を境に再び時代劇に回帰する黒澤にとって、この作品は失敗した実験だったのだろうか。それを考えるためにはこの映画の題名にある「生きもの」という言葉に注目する必要があるだろう。この生きものとはもちろん中島老人を含めた人間たちを示すのだが、志村喬が『死の灰』という本を読んで吐く「鳥や獣がこの本を読んだら、日本から逃げ出すね」というセリフは人間の生きものとしての危うさを示す、少々鼻白いくらいの暗示になっている。
 おそらく黒澤はこの人間と野生動物の対比から人間の利己性やその利己性が招いてしまう自滅的な結果について考えようとしている。それにたいして中島老人は自分たちの家族を守ることを一途に思い、その家族に仕事や財産を奪われそうになっても彼らを守ろうとするある種のヒーローになる。そして、このキャラクターは黒澤が追い求めたムイシュキン(ドストエフスキーの『白痴』の主人公)の一変形であるとも考えられる。1951年に黒澤はドストエフスキーの『白痴』を映画化しているが、それ以後もこのムイシュキン的キャラクターを描こうと腐心している姿が見える(典型的な例はもちろん『どですかん』だろう)。
 つまりこの映画はやはり失敗した実験だったといわざるを得ない。

 しかしそれでも、三船敏郎はすごい。タイトルクレジットの配役のトップに出てくる三船の姿が見えない。観客は映画を見はじめてしばらくはそのようにして三船を捜すことになる。そして、「あれが、三船だ」とあるとき気づく。その驚きは隠せない。そして三船はすばらしい演技を見せる。ほかの多くの映画と同様に、三船に拮抗できているのはただ志村喬だけだ。
 だから、千秋実がどんなにがんばってもこの映画は三船敏郎の独壇場となり、プロットが今ひとつなことでさらに三船の映画となってしまう。まあ、しかしこの映画はおそらくそれでよくて、三船ってすごいなと思えばよろしい。
 黒澤明とは人それぞれ好きな作品・嫌いな作品が分かれるもので、「これは失敗作だ」という意見も分かれる。だから本当は黒澤作品の評価というのは無意味で、人それぞれの意見があればそれでいいはずだ。なぜそのように評価が分かれるのかというのも少し追求してみたいテーマだが、とりあえずそういう意味でこの映画は私にフィットしなかったということ。原水爆を扱った映画ならほかにもっといい映画がいくらでもあるし、黒澤のドラマとしてももっといいものがいくらでもある。ただそれだけの理由で私はこの作品が今ひとつ気に入らない。