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悪い奴ほどよく眠る

2002/11/10
1960年,日本,150分

 
            
     
 
 日本未利用土地開発公団の副総裁である岩淵の娘の結婚式に新聞記者がやってきた。お目当ては汚職の疑いで取締りの一人がつかまった大竜建設の社長と専務だった。しかしそこにやってきた刑事が連れて行ったのは公団の課長補佐・和田だった。結婚式では花婿の友人でもある花嫁の兄がスピーチをしウェディングケーキに入刀というところで、数年前の汚職事件をうやむやにした役所の課長の自殺をほのめかすケーキが運ばれてくる。
 官と財の癒着、それに伴う汚職、官僚機構の異常さ、など次々浮かび上がってくる現代的な問題をひとつのサスペンスとしてまとめた意欲作。黒澤プロダクション独立後の第一作でもあり、どっしりと重厚な作風は黒澤らしさが存分に出ている。
監督 黒澤明
脚本 小国英雄
    久坂栄二郎
    菊島隆三
    黒澤明
    橋本忍
撮影 逢沢譲
音楽 佐藤勝

出演 三船敏郎
    森雅之
    香川京子
    三橋達也
    志村喬
    西村晃

 

 

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 今回はかなりネタばれしております。ネタばれててももちろん面白作品ですが、一度目はやはりオチを知らずに見たほうが面白いので、まだ見てない人はとりあえずいまからビデオ屋さんに行って借りてきてください。

 この映画にとって最も重要であり、かつ最も面白いのは「見せない」事である。映画を見た人ならば、結末のことを言っているんだなと推測するでしょう。もちろん西が殺されるという決定的なシーンを「見せない」ということは非常に重要である。それは西が実は生きていて舞台に返り咲いて敵をばったばったとなぎ倒すんじゃないかという期待を抱かせるという効果があると同時に、それがおこらないということで更なる衝撃を観客に与える。
 この「見せない」という結末のほかにもう一つ見せていないものがこの映画にはある。それは岩淵副総裁がおじぎをしながら話す電話の相手である。それはつまりこのすべての出来事の黒幕であり、おそらく政治家か何かだろうけれど、それが誰であるのかということのヒントすらこの映画では提示されない。つまり徹底的に「見せない」のである。しかもこの電話のシーンが一度ではなく何度も出てくることからみてもこの「見せない」ということの意図は映画にとって重要であるらしい。

 隠されたものがあると人はその中身を知りたくなる。だから電話の相手の黒幕が誰かということも知りたくなるはずだ。しかし、この映画の場合その黒幕がそれまでに映画に登場していない人物であることは推測できるし、おそらく政治家だということはわかる。しかも、その黒幕が絶対的なボスであるとも思えない。電話の相手にもさらに黒幕がいて、またさらに黒幕が… つまり、誰でもいいとは言わないまでも、特定の個人ではなく、巨大なひとつの機構、仮想的な悪の官僚機構のようなものだと考えていいようなものである。そして、岩淵も守山も白井もその巨大な官僚機構の小役人に過ぎないということだ。
 その上で、西と岩淵が対決する。西は本当の黒幕にはたどり着けないし、西もそれを目指してはいない。彼は政官財にはびこる悪を根こそぎ打ち倒そうとしているわけではない。ただ復讐することを望んでいるだけなのだ。だからそこには決定的に欠落しているものがあるし、この物語は根本的に善と悪の対決ではないのだ。
 それは岩淵が子供たちには「悪人には見えない」ということが強調されていることからもわかる。彼は根源的に悪人なのではなく、電話の相手である黒幕を含めた巨大な悪の官僚機構に絡めたられてしまった一人に過ぎないのだ。しかし、だからといって彼を弁護するわけではない。結末を見てもわかるとおり、彼はその悪を生み続ける機構から逃れることはできない。
 また、西も根本的に善であるわけではない。彼はヒーローではない。岩淵たちも西たちも結局のところ電話の相手をふくんだ強大な眼に見えないシステムに動かされている。そのような眼に見えない巨大なシステムのようなものが黒澤の映画には時々垣間見えるのだが、この映画はその眼に見えないものを見せようとするひとつの試みであると考えることができるのではないか。

 見えないものを見せるためには、それを見せないようにするしか方法はない。この映画が見せようとしているのは、決して見えないものである。したがって、この映画はそれを徹底的に見せない。それが具体的なイメージとしてフィルムに刻まれることはないのだ。それに対して、その見えないものによって動かされるあらゆるもの、岩淵たち、西たち、検事たちは明確なイメージとしてフィルムに刻まれる。そのことによって、「見えないもの」の輪郭が明確になってくる。「地」を塗りつぶすことによって空白である「図」の輪郭が見えてくるのだ。
 この映画はその「地」であり、その地はジグソーパズルのように少しずつ塗りつぶされていく。そして「地」がすっかり塗りつぶされたとき、はじめて「図」の存在に気づくということだ。
 だから、結末はこれでよかったのだ。西の死を「見せない」こと、これがこの映画が見せようとする巨大な見えないものに気づくための非常に大きなヒントになるということだ。