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野良犬

2002/11/9
1949年,日本,122分

 
            
     
 
 暑い夏のある日、訓練を終えて家路についた新人刑事の村上は満員のバスの中を降りたところでピストルを盗まれたことに気づく。あわてて犯人らしき男を追うが逃げられ、上司に報告するとスリ専門の部署に行くように言われた。そこで仲間と思われる女に見当をつけた村上はそこの刑事とともに女に会いに行く。最初女はしらを切っていたが、一日中付きまとって離れない村上の粘りに負けてやみでピストルを売りさばく鉄砲屋の話をする…
 まだまだ若く、きりりとした二枚目の三船敏郎に味がある黒澤明初の犯罪サスペンスドラマ。しかし単なるサスペンスではない人間くささが黒澤らしさか。
監督 黒澤明
脚本 菊島隆三
    黒澤明
撮影 中井朝一
音楽 早坂文雄

出演 三船敏郎
    志村喬
    淡路恵子
    千石規子

 

 

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 筋立てからするとスタンダードな刑事ドラマ。基本的に黒澤明の作品は筋立ては非常に単純で、スタンダードなものが多く、この映画もその例に漏れない。ようは拳銃を盗まれた警官がその拳銃が原因で起きる犯罪に心を痛めながら、その犯人を追うというだけの話。しかし、それをそれだけの話にしないのが、黒澤明であり三船敏郎だ。
 まず圧巻なのは、鉄砲屋の存在を知った村上がその尻尾をつかもうと、復員兵の格好でただひたすら街を、場末の繁華街を歩き回るシーン。本当にただただ歩き回る。果たして何日がたったのかわからない。時には木賃宿に泊まり、時には警察に呼び止められ、雨に降られ、それでもただただ歩き続ける。映画の上でも10分から20分くらいあると思われるこのシーン、しかしこの過程で村上は着実に小汚くなり、思いつめた表情になっていく。その全身に表れる苦悩を1ショット1ショットが表現する。
 しかし、このシーン、あまりに長いように思える。簡単に言ってしまえば退屈なのである。確かに映像には迫力があり、ぐっと引き込まれるが、長すぎてちょっとつらい。長すぎるシーン、それは黒澤明の特徴であり、観客に何かを考えさせる「間」であるということは『蜘蛛巣城』のときに書いた。そのときには時代劇の現代的な意味を考えるための「間」というようなことを書いたが、黒澤の「間」はそればかりに使われるわけではない。
 この映画で「間」が表現するのは苦悩、そして閉塞感だ。出口のない迷宮、それを表現するための長すぎるさ迷い。それはラスト近く、犯人の追跡劇のシーンにも当てはまる。

 この苦悩や閉塞感は、時代性の表現だ。時代劇は時代劇であるがゆえに現代とのつながりを意識しながらつくらていた。しかしこれは現代劇であり、現代的なものをそのまま表現すればよい。今から見れば時代性が現れているというだけのことで、当時にしてみれば非常に同時代的な表現だったと推測することができる。
 私はこの映画の三船敏郎を見て一瞬田宮二郎かと思った。(田宮二郎にも『野良犬』という作品があるが、この作品とは多分まったく関係ないの)もし田宮二郎が60年代にこの三船敏郎の役を演じていたならば、これよりもっとスマートな人物になり、映画のテンポもっと早まっていただろう。
 このことで何が言いたいのかといえば、この映画が捉えようとしているのはこの映画が撮られた40年代後半という時代、まだGHQの統治下にあり、誰もが戦争を引きずっていた時代、人々がまだ重苦しい思いを引きずっていた時代であり、そのような時代に人々の共感を集め、人々に何か希望を与えるようなものを提示すること、そのような啓蒙的なことをも黒澤はもくろんでいたのではなかろうか。黒澤明の映画は時に「説教くさい」といわれるのはおそらくこのあたりから来ているだろう。
 この映画から浮かび上がってくるのはそのような「時代性」というものだ。しかし、ここで行っておかなければならないのは、そのような「時代性」を表現することを可能にしているのは黒澤の時代を超越したスタイルであるということだ。ひとつのスタイルを持った上で、その上にさまざまな時代の物語をのせていく。そのようなことが可能であるからこそ、黒澤の映画は「時代性」を的確に表現することができる。
 その時代を超越したスタイルがどのようなものであるかという分析はまだできていないのでそのうち語るとして、この映画からみえてくるのは黒澤のその時代性へのするどい視線だ。

(ちなみに、田宮二郎の『野良犬』は1966年の作品、「犬」シリーズの第6作として作られたが、1973年には黒澤の『野良犬』のリメイクが渡哲也主演で作られている。)