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隠し砦の三悪人

2002/11/8
1958年,日本,139分

 
            
     
 
 戦で一儲けしようとして当てが外れた百姓の二人組み太平と又七は些細なことで喧嘩別れ。しかし、国に帰ろうとしても関所ができて結局、負けた秋月家の軍用金を掘り出すための強制労働現場で再開した。そして二人は混乱に乗じて手を取り合ってそこを逃げ出し、川で野宿をしているところ薪の中から金の延べ棒を発見した。軍用金だと喜ぶ彼らだったが、いかつい浪人風の男が彼らに近寄る…
 時代劇は時代劇でも時代物ではなくて、娯楽活劇。太平と又七のでこぼこコンビは東海道中膝栗毛などの世界を思い出させるが、外国の人たちには新鮮だったらしく、後にジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』でC3POとR2−D2のモデルにしたという逸話もある。
監督 黒澤明
脚本 小国英雄
    橋本忍
    菊島隆三
    黒澤明
撮影 山崎市雄
音楽 佐藤勝

出演 三船敏郎
    千秋実
    藤原釜足
    上原美佐
    志村喬

 

 

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 「世界の黒澤」といわれても、所詮映画、片意地張ってみるもんじゃない、ということをこの映画は思い出させてくれる。三船敏郎演じる真壁六郎太を中心に、ある種の英雄譚としてこの映画を見ると、そのようなかんがいはわいては来ない。それよりも題名が示すとおり、3人を主役と見て3人がひとつの笑いの舞台を演じていると考えればそのように思える。
 というのも、この映画で光っているのは三船敏郎よりもむしろ千秋実と藤原釜足だからである。そして、そうであるにもかかわらず三船敏郎を確固たる主役と考えることはこの映画のプロットに及ぼす二人の役割を無視することになってしまう。二人は三船敏郎の身に降りかかる災難を作り出す障壁なのではない。むしろ困難な状況を作り出すことで物語に面白みを加え、あるいは物事をよい方向へと運ぶ役笑いを果たしている。いわばこの3人はお笑いトリオのようなもの、役割分担が決まっていて、それを手を変え品を変え繰り返すことで笑いを生み出す。
 ただ、この二人のあまりの成長しなさには辟易する。もちろん彼らが成長してしまって、物事をこじらせなくなってしまうと映画的には困るのだが、常識的に考えると、もう少し成長してもよさそうなものである。しかしこの同じことの繰り返しが生み出す余剰の時間が考えるための時間となる。

 黒澤明の時代劇はそれが時代劇である(つまり現代とはかけ離れている)ことを常に意識して作られている。しかし、同時に映画と自分(の生活)が無関係なものではないことを観客にうったえる。
 一方で、黒澤は一人の人物への同一化に観客をいざなうことはせず、常に観客をすべてを見通せる視点、いわゆる「神の視点」において、展開される物語を距離を置いて見つめさせる。
 この二つを両立させることは難しい。誰かに同一化できるのであれば、時代がいつであっても、場所がどこであっても、観客を映画に引き込むことは容易だ。しかし、黒澤明がやろうとしていることは観客を映画の外部に置きながら、映画世界と現実世界をすり合わせることだ。そしてこれを可能するということが黒澤の黒澤たるゆえんなのだろう。
 たとえば、この映画で過去と現実をつなぐものはなんだろうか。よく考えればいろいろあるだろうが、まず思いつくのは「人情」ということだ。人の情け、黒澤明はこれを戦略的に用いることも多い。六郎太の人情がさまざまな障害の原因となっているけれど、同時にそれに助けられることもあり、人情は両刃の剣となる。今考えると少々古風な感じはするが、映画が作られた当時はいまだリアルな感覚だったのかもしれない。そして今でも完全に失われた感覚ではない。
 もちろん映画的なこと、特に映像の迫力というのも黒澤の現代性を示す大きな要素だ。そして人物の迫力、人物の作り方のうまさも見逃すことはできない。
 そのようなことも含めて、時代を超えても何か近しいものと感じさせ、観客を引き込むものがないと時代劇は映画として成立し得ない。もちろんそれは黒澤以外の作品にも当てはまることだが、時代劇を多くとっている黒澤が今も評価されていることを考えると、そこに現代性があると考えざるを得ないし、この作品をはじめとして彼の多くの作品にはそのような現代性が備わっているように思える。