Zoo
1993年,アメリカ,130分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 この映画の始まりはわれわれがイメージするままの動物園だ。象のショーが行われ、家族連れや、カップルが思い思いに動物を見、動物に触れている。舞台となっているのはマイアミにあるメトロポリタン動物園。マイアミという土地柄かトロピカルな鳥なども多い。
 一般的な動物園を見せた後カメラは動物園で働く人々を映し始める。ワイズマンの目は主にこの働く人々に注がれるが、それだけではなく、動物にも、客たちにも等しく注がれる。そこにあるのは動物園という世界のそのままの現実である。

 ワイズマンは施設を被写体にするといっても、実際はその中で主に描こうとする対象、あるいは多くの時間を割いて映す対象がある。しかし、この映画は客も映っているし、従業員も映っているし、動物だけが映っている場面もある。どれかが突出するということもなく、全体像をうまく描く。
 そのように見えたときに受ける印象は、この映画が動物園の疑似体験のように感じられるということだ。観客は動物園の客として、しかし単なる客ではなく、普通の客には入れないような特権的な内部にまで入ることのできる客としてこの動物園を見る。そこには動物園で得られる喜びと、動物園の裏側を見ることによる驚きがある。サイの出産やワニの産卵というドラマは、この映画のそのような見世物的な印象を強める。

 しかし、もちろんワイズマンはこの映画を見世物として作ったわけではない。そんな見世物的なものからはみ出す部分がこの映画にはやはりある。
 わたしが一番引っかかったのは、従業員の動物たちに対する態度だ。サルに接するときのように愛情をもって接している場面を捉えることもあれば、病に冷淡に接する場面を捉えることもある。この映画のハイライトのひとつとも言えるサイの解剖のシーン、解剖を終えたサイを焼却炉に放り込む獣医の行動はあまりに淡白すぎるように見える。
 しかし、それが単純な動物愛護というような訴えでないことは明らかだ。このシーン意外で目につくシーンは、オオトカゲとヘビの食餌のシーンだろう。オオトカゲはアジか何かの魚とひよこを咀嚼しながら飲み込んでいく。ヘビは、飼育係によって、頭を殴られ殺されたウサギをそのまま丸呑みにする。このひどく残虐でグロテスクなシーンは観客にショックを与えるとともに、その意味を考えさせる。表面的な残虐さにとらわれると真実が見えなくなってしまうということを示している。
 そのような真実が見えている従業員たちは動物と微妙な距離感を保つ。その距離感になんだかメッセージが込められているような気がする。

 そんなワイズマンはこの映画で何度か動物園を取材に来ている人たちを映す。彼らは小道具として草を手に持ったり、わかりやすいコメントを何度も撮ったりする。それがワイズマンの姿勢とは正反対であることは明らかだ。ワイズマンがあえてこれを編集後も残したのは、明確に自分の存在意義というか、いわゆるTVドキュメンタリーとの違いというものを明らかにしておこうという意図があったのだろう。動物園というわかりやすい題材を、わかりやすくとったワイズマンは、このTVクルーの映像をいれることで、わかりやすく彼らとの差異化を図った。

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