Law and Order
1969年,アメリカ,81分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 カンザスシティの警察官の様子。もちろん犯罪者を逮捕する。それだけではなく、街を見回りさまざまな出来事に応対する。ひったくられたバックの捜索などもする。ワイズマンがカメラを回したのは、アフリカ系の住人が多く、貧しい住民が多い地域である。
 映画は警察の活動を肯定的とも否定的とも取れる形で捉えていく。しかしそれは客観的という価値観によるものではなく、まさに現実を切り取ろうという意欲の結果である。
 現実はそのようなものであるとして、その『法と秩序』が意味しているものはなんなのか? ワイズマンはいつものように観客に問いかける。

 警察を追うドキュメントというのは見慣れた感じがする。日本でも「警視庁密着24時」なんてのもあるし、アメリカの番組も入ってきていたりする。だからといって、必ずしもこの映画と比較する必要もなく、この映画が30年以上前に作られたことも考え合わせると、単純な比較をすることがそもそも間違っているような気がする。ので、とりあえず比較はおいておいて、素直にこの映画を見てみたいと思う。
 この映画を見てまず思うのは、警察官とはいったいなんなのか? ということだ。それはあまりに素朴な感想だが、ワイズマンの描き方は、まさしく警察官のとらえどころのない活動の総体を捉える描き方だ。時には市民に優しく接する人々であり、時には犯罪者と見まごうばかりに暴力的にもなる。それはつまり生活に密着した存在であると同時に、権威を象徴する存在でもある。そのような存在である警察官を公的に表すのが「法と秩序」という言葉だ。警察官とは「法と秩序」の万人であるという言われ方をする。
 しかし、この映画に突然ニクソンの演説が挟まれると、話は簡単ではなくなっていく。ニクソンが「法と秩序」について語り、治安の維持こそが大切だと叫び、人心の刷新こそが必要だと訴えかけるとき、慣習の歓声がそこに捉えられているにもかかわらず、そこに説得力はない。それまでずっと警察官の活動を見せられてきたわれわれは、警察官の活動が上からの変革の影響を早々受けるものではないということにうすうす気付いている。だからニクソンの演説は訴えかけてくる以前に滑稽ですらある。
 これはある意味では、国家と生活との乖離を示す一つの例なのかもしれない。国家とはつまり権力である。警察とは国家と生活をつなぐ一面を持っているかもしれないが、その背景にあるのは権力である。だからいくら生活に近づこうとしても、そこに行き着くことはできない。その生活に密着しているようで、近づききれていない警察の微妙な立場がフィルムに込められているからこそ、この映画を見て「警察官とはいったいなんなんだ」と考える。

 結局ここで比較の話にいってしまいますが、いわゆる警察ドキュメントとこの映画との違いは、その辺りにあるのではないか。いわゆる警察ドキュメントが追っているのはあくまで警察の活動である。それぞれの活動の「意味」を求めることはあっても、基本的にそれが求めるのは警察の<活動>である。
 それに対して、この映画はまず警察の「意味」を求める。求めるというよりはそれを問題のまな板に載せる。ここの活動の「意味」も、活動それ自体もあくまで警察というものの存在の「意味」を考えるための材料である。
 もちろん、映画とは個々の映像(と音声)から成り立っているものであるので、そのように言ってみても、それは単なるひとつの解釈に過ぎないということになる。映像だけを捉えるなら、この映画もいわゆる警察ドキュメントもあまり変わりはない。
 あえて、繰り返しふたつの間の違いを言うならば、それは見ているものを考えるように仕向けるか否かという違いである。同じ材料を映像化しながら、それを一種のエンターテインメントとして見せるか、それとも思索の材料として見せるか、優劣以前の問題としてそのような違いがあるような気がする。

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