deaf
1986年,アメリカ,164分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 アラバマ聾学校を舞台に、聴覚障害の子供たちと、教師、寮母たちを描く。聴覚障害の子供たちの多くはしゃべるの困難だ。だからキャンパスは静寂に包まれ、何か不思議な雰囲気を持っている。教師や寮母は健常者であったり、しゃべる技術を見につけた聾者であったりする。
 ワイズマンが焦点を当てるのは、その全面的な教育である。聾者に対する教育の意味というか、それがどのように行われているかを提示することで浮かび上がってくるのはやはり「アメリカ」というものだ。

 『聴覚障害』というタイトルではあるが、この作品も他の作品と同じくひとつの施設(聾学校)を対象とした作品である。主に取り上げるのは小学校入学前から小学生くらいの子供、言語を獲得していく過程にある子供たちである。これは素朴な感想だが、言語を獲得していく過程が、耳が聞こえると聞こえないとではあまりに違う。聾者にとって問題なのは言語を操ることではなく、言語を獲得することなのだということがリアルなものとして伝わってくる。しゃべるという概念すら理解できないとしたら、そうして言語などというものを想像することができるだろうか? 自分が聞くことのできない音を発するということがどんなに困難なことか。

 そんな素朴な感想を超えてまず気になるのは、映画のハイライトになる後半の長いシーン。好調とカウンセラーと生徒の母親が話していて、そこの生徒が呼ばれるというシーン。カメラはずっとその室内にとどまって会話を余すことなく伝える。このシーンは簡単に言ってしまえば、聴覚障害者であるということにかかわらず、人間として正しく生きろということを生徒に諭している場面であるが、実際にそこにあるのは、思春期のもやもやや独立心やいろいろなものを押しつぶして大人の価値観を押し付けようという姿勢である。
 彼だって母親を愛している。しかし思春期にありがちな反抗心や気恥ずかしさ(それは独立心に由来していると思うが)によって、それを認めたくないだけだ。そこには葛藤があって、その葛藤を乗り越えて、自ら愛や家族というものを理解していくべきもの(だとわたしは思う)のに、この校長(とカウンセラー)は無理やりに彼に母親を愛しているということを認めさせてしまう。そこには脅しがあり、賞罰主義が透けて見える。これを見て思うのは、これは彼を大人にしようという教育ではなく、無条件に愛するという子供の状態に戻すだけなのではないかということだ。この学校では、大人として愛というものを理解することを教えるのではなく、操作しやすい都合のいい生徒にするだけだ。

 結局、彼らの教育とは障害者にある種の生き方を強制するするものだ。それは自らが他の人と変わらないという生き方。それは最後の黒人の成功者らしい老人が言っていることともつながるが、ハンディキャップがあってもそれを克服して生きられる、成功することができるという哲学だ。そこには逃げ道はない。何をしゃべっているのかわからない異邦人たちの国で彼らはその中に溶け込み、その中でのし上がっていかなくてはいけないと説得されているのだ。しかも、そんな異邦人たちの国を愛せといわれている。
 最後の黒人の話はあまりにひどい。エジプトだかどこだかの話をしてそこにはアメリカのような自由はないと語る。そしてアメリカは素晴らしい。その言説にはあらゆる問題が含まれている。まず彼はアメリカの自由がそのような不自由な国に対する搾取によって成り立っていることを自覚していない。アメリカこそがその自由を奪っているのだということに気付いていない。
 彼は自らがマイノリティであったという経験を持っているにもかかわらず、マジョリティの価値観の押し付けに無自覚である。この聾学校の教育そのものがマジョリティの価値観の押し付けである。そもそも問題とするべきなのは、少年の自殺のほのめかしなどの言動なのか、それとも母親が手話を学ばないということなのか。わたしは母親が手話で息子と語れないということのほうに根本的な問題がある気がするのだが。

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