The Virgin Sucides
1999年,アメリカ,98分
監督:ソフィア・コッポラ
原作:ジェフリー・ユージェニデス
脚本:ソフィア・コッポラ
撮影:エドワード・ラックマン
音楽:エア
出演:キルステン・ダンスト、ジェームズ・ウッズ、キャスリン・ターナー、ジョナサン・タッカー、ジョシュ・ハーネット、マイケル・パレ

 70年代、アメリカ。美女ばかりがそろったリスボン家の5人姉妹。その姉妹に異変が起きたのは末娘のセシリアの自殺未遂からだった。かみそりで腕を切ったシシリアは一命を取り留めるが、リスボン家には不穏な空気が流れる。もともとしつけに厳しかった両親は、娘たちをあまり外に出さなくなり、秘密めいた雰囲気が流れた。
 フランシス・フォード・コッポラの娘ソフィア・コッポラの監督デビュー作。役者としてはいまいちだったソフィアも、監督としてはなかなか。コッポラファミリーは生まれながらに映画に対する感性を持っているのかもしれない。

 なんとなくいい。未熟な断片が折り重なって、そこに秘められたメッセージも、見え隠れするプロットも、思わせぶりなだけで何かそこに確実なものがあるわけではないとわかっていながら、そこに何かある気がしてしまう。
 たとえば、ユニコーン。ほんの1カット、1秒あるかないかのカットに映ったユニコーンが抱えるメッセージは何なのか? そこでユニコーンが映ることによって生まれる解釈はそれが現実ではない夢物語であるということ。
 姉妹と時をすごしたかつての少年が回想する姉妹の物語、同じときを過ごした当時から空想を重ねた少年の記憶は、主観性を失う。ひとりの少年の視点から一貫して語られるのではなく、さまざまな視点が混在するのはおかしい。
 現実と空想が、正気と狂気が入り混じる空間で語られたことは何一つとして確実ではない。だからこの映画にはとらえどころがなく、しかし空想や狂気の世界とは、甘美そのものであるから、この映画は甘美である。
 テレビ・レポーターという現実世界の陳腐な表象。この陳腐さはそれが現実ではないことを立証しているかのようである。唐突に現れ、繰り返し現れるというのもなんだか現実感がない。
 振り返ってみるとこの映画のすべてが現実感を持っていない。
 死とは甘美なものかもしれない。
 この映画の映像の断片やひとつの台詞や一片の音楽が心に引っかかってくるのはその一つ一つが甘美なものだからだろう。一人一人の人間が持つ甘美な空想世界。その空想世界と重なり合う世界がこの映画の中に断片として含まれている。だからその断片に出会ったとき、その甘美さが心に引っかかる。
 13歳の女の子ではなくっても、13歳の女の子と甘美さの一片を共有することはできる。それがこの映画が成功した秘密だと思う。そしてソフィア・コッポラにはそのように断片を積み重ねることができるセンスがあるということ。

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