Nuit et Brouillard
1955年,フランス,32分
監督:アラン・レネ
原作:ジャン・ケイヨール
脚本:ジャン・ケイヨール
撮影:ギスラン・クロケ、サッシャ・ヴィエルニ
音楽:ハンス・アイスラー
出演:ミシェル・ブーケ(ナレーション)

 「ガス室」によって知られるようになったユダヤ人強制収容所の町アウシュビッツ。今は平穏な町となっているその町で戦争中行われていた暴虐の数々。ナチスによって残されたスチル写真と、現在の強制収容所後の姿を重ね合わせながら、その実態を明らかにしていく。
 さまざまなメディアによって取り上げられ語られてきたホロコーストとアウシュビッツだが、1955年の時点でこれだけのことを語り、これだけの恐怖を体験させる映画世界はものすごいとしか言いようがない。

 最初、のどかの田園風景のはじにちらちらと映る鉄条網と監視所。この時点ですでに鋭いものを感じるけれど、このカラーの跡地となった強制収容所の映像が、過去の白黒の映像にはさまれることで変化していくそのさまがすごい。跡地のがらんどうのベットの列、ただの穴でしかないトイレの列。これらのただのがらんどうである空間を見ることで体の中に沸いてくる恐怖感は、過去の映像だけでは実感できないもの。そこにひしめき合っていた人々がリアルに感じられるのはなぜだろう? 腹の底から沸き上がってくるような恐怖感を生み出すものは何なのだろう?
 それは「視線」だろう。記録としてとられた収容所の映像の視点はあくまで傍観者のものでしかない。しかし、レネは跡地を訪れ、それを傍観しているのではなく、強制収容所の生活というものを再体験しようと欲し、映画を見る人にもそれを再体験してもらおうと思っている。そこから生まれる、視線の置き方がすばらしいのだと思う。
 もちろん悲惨な映像もあり、それはそれで衝撃的なのだけれど、ただ悲惨なだけで恐怖感が沸くわけではない。それは一種の見せ方の問題だ。たとえば、髪の毛の山。一枚のスチル写真であるこの髪の毛の山を、普通は静止した一枚の写真として見せるだろう。しかし、この映画ではまずその静止画の下のほうを映し、そこからカメラを上にずらしていく。つまり、実際の山を下から上へと映していく効果を一枚の写真で生み出している。これはカメラによるひとつのドラマ化であるといえる。われわれが理解するのは強制収容所と虐殺という事実であるが、本当に恐怖するのは、われわれが虐待され虐殺されるというドラマなのだ。だから、人に何らかの感情を呼び起こそうとするならば、それがたとえドキュメンタリーであってもドラマ化が必要となるのだ。そういう意味でこの映画は純粋に優れた映画であり、ドキュメンタリーという枠で捉らえたとしても優れたドキュメンタリーであるといえるだろう。
 この映画を見て、あなたは何度身をすくめただろうか?

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