Lista de Espera
2000年,キューバ=スペイン=フランス,106分
監督:ファン・カルロス・タビオ
原作:アルトゥーロ・アランゴ
脚本:ファン・カルロス・タビオ、アルトゥーロ・アランゴ、セネル・パス
撮影:ハンス・バーマン
音楽:ホセ・マリア・ビティエル
出演:ウラジミール・クルス、タイミ・アリバリーニョ、ホルヘ・ベルゴリア、アリーナ・ロドリゲス

 キューバの田舎にあるバス停留所。そこにやってきたエミリオはやってきたバスに群がる人々を目にする。しかしバスはひとりの少女を乗せただけで走り去ってしまい、待っていた乗客たちはバスに悪態をつくのだった。待ちくたびれた乗客たちは修理中のバスに望みをかけるのだったが…
 「苺とチョコレート」のスタッフ・キャストが再び集まって作られたコメディタッチのやさしいキューバ映画。日本にはあまり入ってこないキューバ映画でもいい映画はあるものです。

 バス停に長くいたら、バス停に愛着が湧くものなのか? そもそもバス停に長くいることがないので想像しにくいですが、普通に考えたらありえそうもないことなので、彼らがバス停をまるで家のように考えるようになるに連れ、どんどん笑えて来ます。それはなんだかやさしい笑い。「いいように考えるんだ」とエミリオも所長も映画の中で言っていましたが、まさにそのきわみという彼らの姿勢はどんな状況でも救われてしまうような勢いを生む。明るさを生む。そして見ている側にまで、その明るさとやさしさを分け与える。そう感じました。
 だから、一度オチた後の展開も最後の結末も、納得し微笑み、大きな心で受け入れて笑って終わることができる。バスを待っている時点でも、一度オチたあとでもその物語が現実であると実感をもって理解することはできないのだけれど、それが現実であって欲しいと望んだり、現実としてありうるかもしれないと思ったりする、それくらいの現実感を生み出す力がこの映画にはある。
 キューバ映画があまり日本に入ってこないことの理由のひとつに検閲の問題がある。現在でも社会主義国家であるキューバの映画は国家によって検閲を受ける。その検閲を通らなければ、映画を上映することはできないし、おそらく相当な苦労をしなければ海外に持ち出すこともできず、その映画は埋もれていく。だから、日本であるいは世界で見られるキューバ映画のほとんどはキューバ政府の検閲を通ったものである。この検閲というのは基本的には不自由を意味し、完全にマイナスなことであると理解される。もちろん自由に映画を作れないことは映画界全体にとってはマイナスだし、意欲的な作家はキューバを出てもっと自由に映画を撮りたいと思うだろう。しかし、この検閲という体制の下でもいい映画は生まれる。検閲とは映画にとっての制限のひとつに過ぎない。映画には他にも資金や期間、あるいはそもそもフレームという制限がある。その制限の中でいかに表現するかが作家の力量であり、それが芸術というものだと思う。だから必ずしも検閲があるから面白い映画は生まれないというわけではないだろう。いまや映画大国となっているイランにも検閲は存在するし、日本の映倫も自主規制とはいえ検閲の一種であるだろう。
 話がまとまらなくなってしまいましたが、要するにもっといっぱいキューバ映画を輸入して! ということですかね。埋もれた名作がきっとたくさんあるはず。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です