1959年,日本,105分
監督:市川崑
原作:大岡昇平
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:船越英二、ミッキー・カーチス、滝沢修、稲葉義男

 第二次大戦中のレイテ島。壊滅状態の日本軍の中で、肺病にかかった田村は口減らしのため、病院に入院するように命令される。しかし、立ち上がれないような傷病者であふれかえる病院でも受け入れてもらえない田村は、同じような境遇にある数人の兵士と病院の隣の林で過ごしていた。しかし、そこにもついに、アメリカ軍の攻撃の手が及んだ。
 攻撃と飢餓という要素から極限状態に置かれた兵隊たちの心理を描いた作品。この映画のためにかなりの減量をしたという船越英二の演技が素晴らしい。

 確かにすさまじい映画で、戦争の経験がわりと身近なものではある時代にしか作れなかったものであるような気がする。映画にたずさわる誰もが戦争を経験し、それを表現したい欲望に駆られている。そんな雰囲気が伝わってくるような作品である。
 しかし、今見れば手放しで賞賛できるような内容ではないことも事実。どこまでが事実でどこまでがフィクションなのかという問題ではなく、ひとつの戦争をこのように描くことによって伝わってしまうものは何なのかという問題。この映画は「人食い」というショッキングな題材を扱っているわけだが、その描き方が何となく薄い気がする。人を「人食い」に駆り立てるもの、「人食い」によって人はどう変わってしまうのか、そのあたりがあまり見えてこない。そこが見えてこないとこの映画の主旨も見えてこない。そんな気がしてしまう。途中でひとりの気が狂った将校が登場する。その存在は「人を食う=狂う」という単純な因果関係を想定してはいないだろうか。私が問題にしたいのは「人を食うことでなぜ人間は狂うのか」という部分である。それはあくまで私の興味ではあるが、ただ「人を食う=狂う」という等式を提示するだけでは説得力がないし、インパクト以外の何かを与えることはできないと思う。この映画からたち現れてくるのは結局のところ「人は食うな」というメッセージであり、そんなことは分かっているといいたくなる。私にとって問題は「なぜ人を食ってはいけないのか」ということであり、それを分かりきったこととして片付けてしまうのは納得がいかない。もちろんこの映画は極限状態にある人々を描くことで、「人を食うこと」に対する葛藤を描き、「なぜ」を考える材料にはなる。しかし、その「なぜ」の答えへと至る路のすべてが見ている側に任されていて、この映画自体はその「なぜ」の答えを出そうとしていない。その答えを提示する必要はもちろんないけれど、その「なぜ」を問題化するぐらいはしてもよかったと思う。
 なんだか難しい話になってしまいましたが、こういうとことんシリアスな映画をみる場合には仕方のないこと。船越英二もいつもの女ったらし役とはまったく違う役を、素晴らしく演じている。やっぱりこの人はすごい役者だったのね。セリフは棒読みだけど、そういう味なんだと思う。

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