1958年,日本,85分
監督:増村保造
脚本:新藤兼人
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、永井智雄、岸田今日子、船越英二

 チンピラの立野三郎は仲間と主に、一人の男を事故に見せかけて殺す。その仕事はうまく行き、親分に褒美をもらった立野だったが、田舎から出てきた秀子を騙して部屋に連れ込み強姦したところを刑事井川に見つかってしまった。
 川口浩と野添ひとみという増村初期のゴールデンコンビで作ったフィルムノワール。新藤兼人の骨太のシナリオの中にありながら、初期増村らしいユーモアが際立つ隠れた名作。

 ドラマ自体はいかにも新藤兼人という骨太なドラマで、しっかりと組み立てられていて隙がない。それはそれで素晴らしいのだけれど、それはある意味では増村の自由さを殺してしまいかねない。それはまだ新人に毛の生えた程度の監督とすでに重鎮となっている脚本家の関係性からは仕方のないことだ。つまり、この映画は作られた時点ではあくまでも売れっ子脚本家とすでにスターとなっていた川口浩と野添ひとみの映画。それを増村保造という監督が撮ったというだけのものだっただろう。しかしいま、増村保造という監督を意識してみるわれわれは、そこに垣間見える「増村らしさ」を探してしまう。川口浩と野添ひとみがななめの関係になる構図、刑務所の場面のスピード感とユーモア、などなど。
 素直に映画を見ると、おそらくそんな細部よりも、ドラマトゥルギーに心奪われ、野添ひとみの不均衡な魅力に魅了されるのだろうけれど、作家主義という一面的な映画の見方に毒されてしまうと、そこがなかなか見えてこない。しかし、作家主義は素直な子供のような見方を隠蔽する一方で、映画を分析的に見ることができるという利点もある。わたしがいつも思うのは、そういったさまざまな見方が同時にできれば一番いいとことである。しかし、それはなかなか難しい。この映画を見ながら野添ひとみのクロースアップに魅了された私は、果たしてその場面の構図がどうなっていたのかなんて覚えていない。他に何がうつっていたのかもわからない。そういったものの配置にも気をつけて、監督の特性をとらえるのが作家主義なのだとしたら、わたしは作家主義的見方でこの映画を捉えるということには失敗していることになる。しかし、子供のように無心に映画を見ていたわけでもない。
 なぜ、こんなことを長々と書くかといえば、この映画を見ながら最も強く感じたことが「もう一回見たらずいぶん違う映画に見えるんだろうな」ということであったからだ。増村の映画は大概そうだが、この映画は特にそう思った。それはおそらく増村保造の存在が多少隠されたものとして存在するからだろう。もう一回見ることで、無心に見ることのできる場面、分析的に見ることのできる場面が変わってくるだろう。
 つまり、わたしは今1回見た時点でこの映画を見たと言い切ることはできない。だからないように関して責任あるレビューを書くことはできない。だから内容とは直接的には関係ないことを長々と書く。本当はどの映画のときもそうで、自分を騙し騙し書いているのだけれど、切実にそういうことを意識させられると、なかなか筆が(キーが?)進まないもので、こういうことになりました。

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