Chasing Amy
1997年,アメリカ,114分
監督:ケヴィン・スミス
脚本:ケヴィン・スミス
撮影:デヴィッド・クレイン
音楽:デヴィッド・パーナー
出演:ベン・アフレック、ジョーイ・ローレン・アダムス、ジェイソン・リー、ドワイト・ユーウェル、マット・デイモン

 ホールデンとバンキーは20年来の親友で2人でコミックを共作、しかもその作品で売れっ子になった。彼らはある日、ゲイの黒人漫画家フーバーに女性漫画家アリッサを紹介される。ホールデンは彼に一目ぼれ、彼女もまんざらではないように見えたが、彼女に誘われクラブに行くと、彼女は美しい女性とキス。じつは彼女はレズビアンだった。
 「クラークス」で話題をさらった新鋭監督ケヴィン・スミスの3作目の監督作品。コメディタッチのようでセクシャリティについての考察がこめられた意外とシリアスな青春映画。ブレーク寸前のベン・アフレックがいい感じ。マット・デイモンもちょい役で出演。

 「セクシャリティ」というのがなんといっても問題になるが、この映画のいい点は結局のところホモセクシュアルを擁護するわけでもなく、否定するわけでもないところ。ただそこにあるものとして、選択肢のひとつとして描いたこと。セクシュアリティの歴史の中で差別されてきたホモセクシュアルを擁護しようというのがここ10年か20年くらいの動きであり、映画でもそんな映画が多く撮られた。しかし現代、すでにそのようにホモセクシュアルを擁護するだけの映画は時代遅れになってしまった。実際はホモセクシュアルは依然として差別されつづけ、冷遇され続けているからそのような映画も取られなければならないのだけれど、人々の倫理観としては、ホモセクシュアルをそのように差別することが間違ったことであるという認識は確立されているのだろう。
 この映画の中ではバンキーがそのような旧態依然のホモフォビアをかかえる人物として描かれているが、彼が潜在的にゲイであることは映画が始まってそれほど時間がたたなくてもわかることだ。自分のゲイ性を否定するものとしてのホモフォビアであることはすぐにわかる。
 しかし、そのようなことは今までにも描かれてきた。この映画が新しいのは、ゲイであることが「普通」(規範)から外れているということを描いたからではなく、ゲイの中にも「普通」(規範)があることを示しているからである。アリッサのレズビアン仲間の反応、そしてホールデンに告白されたときのアリッサの反応。それらは「正しい」ゲイのあり方というものの存在を示す。
 そしてもうひとつこの映画の新しさはセクシャリティが変容しうるものであることを示したこと。あるいはヘテロやゲイといったカテゴリーにくくられない自由なセクシャリティも存在しうるということ。最終的にはホールデンとバンキーが付き合ってもよかった。見ている側としてはそれぞれ賛否意見があるだろうけれど、「そういうこともありうる」ということは認めると思う。それはこの映画にそれだけ説得力があったということではないか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です