1970年,日本,92分
監督:増村保造
原作:遠山雅之
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:渥美マリ、川津祐介、永井智雄、玉川良一、西村晃

 水商売で暮らす母と母の男とともに暮らしながら洋裁学校に通う由美だったが、ある日母の男に強姦される。それを母に告げると、母は男を刺し殺してしまった。刑務所に入った母のためにも水商売の世界に入った由美はその美貌と体を生かしてのし上がっていく。
 瞬く間にスターダムにのし上がり、まもなく消えていった渥美マリの代表作。その魅力で男をとりこにする女という増村が好むテーマ。しかし、この映画の場合、男をもてあぞぶ悪女というイメージでは必ずしもない。

 男をとりこにし、破滅させるというのは『刺青』や『痴人の愛』に通じるテーマだが、この3つの作品はそれぞれかなり異なっている。『刺青』は男を破滅させ、最後に自分も破滅してしまう。『痴人の愛』は一度は二人とも破滅するが、最終的にはある種のハッピーエンド。『でんきくらげ』は最初のうちは他の2作より男が優遇されているが、最後に破滅するのは男だけである。だからこそ電気くらげなのだろうが、終わってみれば一番たちが悪いのがこの由美だったりする。
 しかし、見ている我々は悪いのは由美ではなく男なんだと思う。そこが増村のすごいところ。この人はフェミニストなんじゃないかと思ってしまうくらい、女が勝つことが多い。まあ、勝ち負けの問題ではないのだけれど、概して女が強く男は弱い。その典型的な映画がこの『でんきくらげ』なのかもしれない。
 この映画を見てひとつ思ったのは、由美が野沢とともに母親に面会に行ったとき、由美が母親と話しているカットで、奥にいる野沢が妙に無表情なこと。脇にいる人が無表情というのは『卍』なんかでも思い当たる節があるんですが、かなり不思議な感じです。
 それから、この映画はワイドスクリーンなんだけれど、画面の焦点が中心にない。大概、話している人物が画面のどちらかによっている。これまたかなり不思議な映像で、巧妙なというか奇妙なフレーム使いでかなり気になりました。どういうことかといえば、普通ワイドスクリーンの場合、画面の中心に焦点を当てる人物がいて横の広いスペースに均等に小物を置く。しかしこの映画は、話している人が右側にいたら左側の画面が大きく開いている。しかもそこに何かがあるわけでもない(ことが多い)。普通こういうことをすると画面がさびしくなるものなのだけれど、この映画はまったくそういうことがない。なぜなんだろう? そのなぞは解けません。
 これは余談ですが、『グループ魂のでんきまむし』の「でんきまむし」はこの映画からとられたそうです(監督談)。どんな意味がこめられているのかはいまいちわかりませんが、人々をしびれさせる(笑いで)ということでしょうかね。

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