1960年,日本,94分
監督:増村保造
原作:大江健三郎
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:黛敏郎
出演:若尾文子、ジェリー藤尾、船越英二、伊丹一三(十三)

 四年浪人した末にまたも大学に落ちてしまった大津彦一は田舎の母親のためにも大学に受かったことにして、偽大学生として大学に通おうと決意する。そうして東都大学で偽大学生生活をはじめた彦一はひょんなことから学生運動グループに仲間入りし、学生運動に参加することになるが…
 当時文学界のニューウェーブとして話題を集めていた大江健三郎の小説「偽証のとき」を映画化。若者の複雑な心理を偽大学生という要素によって抉り出したサスペンスフルな映画。
 主人公はジェリー藤尾で若尾文子は主役ではないのだが、男ばかりの学生の中でその存在感は絶大。作品はモノクロ。

 いつものことながら、増村保造は人間の心理を抉り出す。「狂気」と「正気」の間には紙一重の隙間もないのかもしれない。最後のクライマックス、学食に学生たちを集めて演説会が行われ、若尾文子扮する睦子がたまりかねて演説をぶつシーン、真実を語っているはずの睦子がみなに笑われるシーン、われわれは一瞬、本当に何が真実なのかわからなくなってしまう。もしかしたらこの映画全体が狂気の産物だったんじゃないかと思ってしまう。それは「ドグラマグラ」の世界のように。
 映画は結局きちんと話を整理し、現実は現実に狂気は狂気にと返してしまうのだけれど、それで現実の問題が解決されたわけではないことに変わりはない。 増村が好んで描く「狂気」というもの。恣意的な線引きで「正気」と区別されてしまう狂気。我々はそれが怖いけれど、それは身近にある。あるいは身近にあるからこそそれが怖い。増村の映画にはその「狂気」が常にといっていいほど頻繁に出てくるのだけれど、それを正面から描くことはなかなかない。あるいは、はっきりと境界を越えて「狂気」のほうに入り込んでしまった人を描くことはなかなかない。むしろ境界ぎりぎりで「正気」のほうにいる人、あるいはまさに境界線上にいる人を描こうとする。
 そんな意味で、この作品は他の作品とは少し違うということもできるし、同じということもできる作品。私としては、増村的世界を大江健三郎が歪ませた、あるいは、増村の歪みと大江の歪みがあわさって新たな歪みを生み出した作品と考えたい。

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