Kauas Pilvet Karkaavat 
1996年,フィンランド,96分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン、エリヤ・ダンメリ
音楽:シェリー・フィッシャー
出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン、エリナ・サロ

 レストランで給仕長を務めるイロナと市電の運転手をするラウリの夫婦、新しいテレビも買い幸せに暮らしていたが、市電の赤字による人員削減でラウリが解雇されてしまう。仕事をいくら探しても見つからないまましばらくたったころ、イロナのレストランも大手のチェーン店に買収され、イロナも失職してしまう。仕事も見つからず、二人は途方にくれる…
 アキ・カウリスマキ得意の重い空気。フィンランドの重く垂れこめた空と、それとは対照的に鮮やかな色彩にはカウリスマキ監督の繊細な映画的感性が感じられる。

 これは非常にカウリスマキらしい映画であるにもかかわらず、当たり前の映画であるようにも映るという不思議な映画。カウリスマキはかなり変わった映画を80年代から90年代前半にかけて撮り、“カルト”という印象を観客に植え付けた。そのカウリスマキらしさとは徹底的に削られたセリフ、無表情な登場人物たち、常に暗さを伴う風景、印象的な音楽、などなどというもの。この映画にもそれらの要素はことごとくあり、まさにカウリスマキ的世界がそこにはある。
 しかし他方で、カウリスマキは変わりつつあったのかもしれない。常にシニカルであったカウリスマキの映画に何か本当に明るいものが見えて来ているような、(カルトではないという意味で)当たり前の映画に近づきつつあるような、そんな印象がこの映画にはあった。この映画を最初に見た時点ではそれは何かカウリスマキの魅力が薄められているようで、面白みが削がれているようにも感じられたけれど、いま改めてみると、それはカウリスマキの新たな次元というか、カルトから本当の実力派へと脱皮する段階であるのかもしれないと思える。
 映画を、そして物語を無理にひねろうとせず、観客の不意を付いて驚かせようとせず、ストレートに物語を進めながら、しかしその世界は明らかにカウリスマキという、そんな映画がこの映画では目指されているように思える。しかし、カルトな観客も裏切らず、さまざまな仕掛けも隠されている。 

 そして、カウリスマキらしいといえば、この映画で印象的なのはタバコ、とにかくカウリスマキの映画といえばタバコ、これは欠かせない要素である。このタバコとそしてもうひとつ欠かせない犬が非常にカウリスマキ的であり、映画的である。映画とはただそこにあるものではなく、画面から匂いたつものであるはずだ。この映画のタバコや犬からは「映画」がたまらなく匂ってくる。
 普通の「話」では無視されがちな些細な細部がたまらない魅力を放つのが「映画」的。これだけ、タバコと言う小道具を魅力的に使った映画を最近は見ない。昔はどこでもタバコは小道具の王様だったのに。そして犬。ただの犬。いつも尻尾を振っている犬。しかしこの犬がなんとなくこの映画にけじめをつけている。それぞれのシーンにそっと登場し、さりげなく存在感をアピールし、当たり前であることをそっと告げて去って行く。
 この犬に限らず、カウリスマキの映画には物語にはまったく必要のないものが登場し、それによって非常に魅力的になってしまうということがある。ただ二人が立っているのではなく、何かが通り過ぎたり、何かの音がしたり、ただそれだけでそのシーンが名シーンであるように思えてしまう。そんな魔法のような効果がカウリスマキの映画にはある。
 一見当たり前のようにも見える映画の中に、映画的魅力をふんだんに盛り込む、そんな魔術師のようなカウリスマキの魅力はカルトであることから離れていっても、増して行くばかりなのだ。彼は今本当に偉大な監督になろうとしているのかもしれないとこの映画を見て思った。

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