Passion 
1982年,フランス,88分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
出演:イザベル・ユペール、ハンナ・シグラ、イエジー・ラジヴィオヴィッチ、ドミニク・ブラン、ミリアム・ルーセル

 最初のカットは、空を横切る飛行機(雲)。そこから、切れ切れの断片が次々とつなげられる。それぞれの意味するところは説明されることなく、それぞれのカット(映像)の切れ目とセリフ(音)の切れ目も一致しない。ひとつのモチーフは工場で働くどもりの少女、もうひとつのモチーフは生身の人間で構成される絵画(おそらくレンブラント)の撮影風景。いきなり見るものを圧倒し、混乱させる作りで始まるこの映画、徐々に物語らしきものがたち現れてくる。
 ゴダールらしい実験性と工夫に溢れた作品。物語らしきものがあるようでないようなのだけれど、常に緊迫感が漂い、見るものを厭きさせない。
 いわゆる普通の映画に馴らされてしまっていると、かなり面食らうに違いない映画だが、この世界になじんでいけば、最後には終わってしまうのを惜しむ気持ちが沸いてくるに違いない。

 この映画に溢れているのは、「音」と「光」。「音」はその過剰さによって、「光」はその不在によって存在を主張する。我々はまず遠くを飛ぶ飛行機のノイズに耳を澄ませ、主人公である少女の吃音に耳を尖らせ、彼女の吹くハーモニカに違和感を覚え、突然けたたましくなるクラクションに驚かされる。
 主人公であるジョルジは光の不在に頭を悩ませ、我々は多用される逆行の画面にいらだつ。美しいはずの音楽は中途で寸断され、聞きたい言葉はの登場人物たちの心の中のモノローグによってかき消される。
 この世の中は、過剰なノイズによって肝心の音は聞こえず、光が存在しなくなってしまったために物が見えなくなってしまっている。劇中で作られている『パッション』という映画が完成しないのは、光が見つからないからではなく、光が存在しないからなのだ。
 ゴダールのすごいところは我々をいらだたせることによって、自分の側にひき込んでしまうこと。我々の欠落した部分につけ込んで我々に期待を抱かされること。しかしその期待がかなうことはなく、我々は痛みを抱えて映画館を後にする(またはビデオデッキのイジェクトボタンを押す)。そして、ためらいながらも違うゴダールに期待をしてしまう。
 なぜそうなのかを分析することは難しい。我々はただ驚くだけ。ゴダールの映画はなぜショッキングなのか? ゴダールの映画に登場する女性たちはどうしてあんなに美しいのか?
 やはりゴダールは天才なのか?

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