Fear and Loathing in Las Vegas 
1998年,アメリカ,118分
監督:テリー・ギリアム
原作:ハンター・S・トンプソン
脚本:テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ、トッド・デイヴィス、アレックス・コックス
撮影:ニコラ・ペコリーニ
音楽:レイ・クーパー、布袋寅泰
出演:ジョニー・デップ、ベニチオ・デル・トロ、トビー・マグァイア、キャメロン・ディアス、クリスティナ・リッチ、エレン・バーキン

 ジャーナリストのラウル・デュークとサモア人で弁護士のドクター・ゴンゾーは砂漠のオートバイレーすの取材のため真赤なオープンカーにドラックをいっぱいに詰め込みラスベガスへ向かっていた。途中ハイカーを拾ったりしながら着いたラスベガスで二人はドラック三昧。ろくに取材もせずにひたすら飛びまくる。
 「鬼才」テリー・ギリアムがその独特の映像で正面からドラッグを扱った作品。とにかくトラップした状態をいかに映像化するかということに映画のすべてをかけている。とにかくめちゃくちゃ。少しやりすぎたかテリー・ギリアム。
 スタッフ、キャストがかなり豪華。脚本に「シド・アンド・ナンシー」などで知られるアレックス・コックスを加え、音楽に布袋寅泰が加わっているのはご愛嬌か。出演陣も今をときめくスターがチョイ役で登場。

 ちょっとやりすぎたテリー・ギリアム。本当にやり放題、好きなことをやりたいだけやる。汚す、壊す、水につける。映像を歪める。緻密な幻覚を作る。筋とか内容とかはどうでもよく、ただただ圧倒的な勢いを作れ! これも「12モンキーズ」のヒットでようやく「カルト」の冠がとれたおかげか。あるいはそれへの反抗か。
 とにかく、完全なるテリー・ギリアムワールドにうまく絡んだ役者人の怪演。特に、ジョニー・デップとクリスティナ・リッチが世界に最も溶けこんでいたと思う。色合いや、ライティングもいかにもテリー・ギリアム。少々時代懐古的な感じも加えつつ、ひたすら切れる。
 少し、興奮を抑えて、分析してみましょう。
 この映画がここまで、滅茶苦茶でありえるのは、きちんと作りこまれているから。つまり、滅茶苦茶なものをそのままとったのでは滅茶苦茶には見えず、それはただ雑然としたものになってしまう。それではいかに滅茶苦茶なものを作り出すか。そのためには滅茶苦茶さを作りこむこと。ある意味では小津的な、しかし小津とは正反対の映画に対する姿勢がそこに感じられる。
 というのは、小津の映画の端整な、清閑な感じもまた、ただなにもないところを映したのではなく、微妙に作りこむことによって、何もないという感覚を作り出したものであるからだ。たとえば、オズ映画の部屋の壁は徹底的に「汚し」をかけ、非常に自然な壁を作り出したという。ただの白い壁があればなにもないという感覚が生まれるのではなく、適度に汚れた壁があってこそそこにはなにもないと感じられるのだ。
 テリー・ギリアムの滅茶苦茶さも、それはただ滅茶苦茶なのではなく、何がどこにあり、何がどのようになっていれば滅茶苦茶だと見えるのかを緻密に計算してある。同じ壁の「汚し」でも、どう汚せば派手に見えるのか、滅茶苦茶に壁を汚すということがどう言うことなのか、それを計算し尽くした末にできあがる滅茶苦茶さ。それがこの映画の秘密だと思う。

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