映画の1906年 - 長編映画の誕生
世界の映画の状況は、大変革を迎える1908年を前にして、遅々とした発展を続けていた。アメリカではエジソン社を中心に映画制作が進み、ニッケルオデオンが急激に増加していたが、作品の質としては世紀初と代わり映えしないもので、再現されたニュース映画や単純なコメディなどが多かった。
ヨーロッパではジョルジュ・メリエスの凋落がさらに進み、反対にパテ社の伸張が目立った。またゴーモン社も着実に力をつけ、フランスの勢力図は確実に変わりつつあった。
そんな中、ヨーロッパではイタリアが力をつけてきていた。前年のアルベリーニ・エ・サントーニ社に続き、アンブローシオ社が設立され、映画製作に乗り出した。その作品のほとんどは剽窃であったが、イギリス映画が力を失ってゆく中、フランスに対抗するヨーロッパ映画のもうひとつの極としてイタリアが台頭してきた。
変わったところではこの年、オーストラリアで初の長編映画『ケリー・ギャング物語』が作られた。その長さは約70分、当時世界最長の映画だった。この映画はヒットし、映画の大変革へのひとつの前提となった。
日本では依然として記録映画と輸入映画が上映作品のほとんどを占めていた。日本映画が本格的に始動するのは「日本映画の父」牧野省三が最初の映画を撮る1908年を待たなければならない。
1906年の主な作品
『ケリー・ギャング物語』 監督:チャールズ・テイト
『大地震直後のサンフランシスコ
』(ドキュメンタリー)
映画の1907年 − 特許戦争の終息
アメリカで長らく続いていた特許戦争は、この年エジソン社が控訴審で一部勝訴を勝ち取ったことで事実上の終息を迎える。エジソン社はこれを受けて、映画の製作・上映に対して10セントの使用量を課すこととし、大手映画会社はこの条件を受け入れることとなった。これによってアメリカでは安定的な映画制作の体制が整ったといえる。
また、ニッケルオデオンも増え続け、一人の経営者が数十館から数百館もの映画館を持つようになった。これがアメリカの映画配給システムの土台となり、同時にニッケルオデオンで財を成した経営者が映画製作に進出することでアメリカ映画は新たな段階を迎えることになる。
またこのとし、エジソン社ではD・W・グリフィスが俳優としてデビュー、映画界に入っている。また、初期映画最大のヒットシリーズである「ブロンコ・ビリー」シリーズの第1作がエッセネイ社によって作られたのもこの年である。
ヨーロッパではパテ社が世界最大の映画会社に成長、この年パテ社はフィルムの販売をやめレンタル制とすることでより多くの利益を上げることに成功し、このシステムが以後100年にわたって続いている。またフランスでは、大衆に向けた映画に対抗するものとして高尚な映画を製作するフィルム・ダール社が設立され、フランス映画も新たな段階に入った。
またロシアで最初のスタジオが開設され、本格的な映画制作が始まった。これで初期のヨーロッパ映画を支えるフランス、イタリア、ロシアという役者がそろったことになる。
日本では相変わらず輸入映画中心の興行が続いていたが、大阪に千日前電気館という常設映画館が作られ、映画の広まりを証明した。また、いわゆるドキュメンタリー映画の製作は続けられ、特に歌舞伎を撮影したものは劇映画のはしりと評価することもできる。
1907年の主な作品
『ケリー・ギャング物語』 監督:チャールズ・テイト
映画の1908年 − 映画芸術の誕生
映画が誕生して10年がたった。新奇な発明としてもてはやされた映画は一時勢いを失ったかに見えたが、フランスではメリエスの踏ん張りで、アメリカではニッケルオデオンの流行でその命をつなぎとめ、1908年には数百万人の観客をひきつける娯楽にまで成長していた。そしてこの1908年は今から見ると、映画に大きな変化がもたらされた年であった。
まず、この年の状況を見ておこう。世界的に見ると、フィルムの生産は好調で、供給過多にもなろうかという状況であったが、他方で題材は数年前と変わらず、有名作品の剽窃が繰り返されるにとどまっていた。観客は同じ題材のくり返しにあき始め、いわゆる「主題の危機」を迎えていた。
また、アメリカでは前年の恐慌の影響によりニッケルオデオンの主たる観客であった移民人口が減少、映画は下り坂に差し掛かったかに見えていた。
そんな中で重要な動きがいくつかあった。まず重要なのは、エジソントラストの成立である。これは当時フィルムをほぼ独占的に生産していたイーストマン・コダックとエジソン、ヴァイタグラフ、ルービン、シーリグ、エッセネイ、アクトグラフ、パテ、スターフィルムの各社が結んだ協定で、各社はイーストマンのフィルムのみを使い、エジソン社に一定のコミッションを支払うことを約束した。これにより、アメリカの映画産業は一元管理されることとなった。このことは映画産業を安定させもしたが、同時に広大な闇市場をも誕生させた。
もうひとつアメリカで重要な出来事といえるのは、D・W・グリフィスのデビューである。グリフィスは前年、俳優としてデビューしていたが、俳優をやりながら脚本も書き、この1908年の6月に「ドリーの冒険」で監督デビューした。そして彼が10月に撮った「幾歳月の後」ではすでに時間や空間ではない映画言語的なモンタージュを用い、クロースアップを多用することで表情による演出を実行していた。
ヨーロッパではフィルムダール社が11月に最初の上映会を開催、そこで上映された「キーズ公の暗殺」はアンリ・ラヴダンが脚本を書き、コメディ・フランセーズの俳優が出演、サン=サーンスが作曲を行ってインテリの鑑賞にも足る作品に仕上がった。これは「主題の危機」に対するフランスなりのひとつの解答であり、この作品から映画が“芸術”としてのスタートを切ったということができる。
この年、映画は産業構造を一変させ、「映画の父」を生み、さらには“芸術”としての道も歩み始めた。この年に作られた作品自体には名作といわれるものはないが、映画史という観点から見ると非常に重要な年だったということができるだろう。
そして日本でもこの年「映画の父」が映画史に姿を表す。その人物とは牧野省三である。京都で芝居小屋をやっていた牧野省三は1907年、横田永之助の依頼で映画の製作を開始、1908年に始めて成功した。その作品は『本能寺合戦』で省三が経営する千本座の役者が出演した。
またこの年、東京の吉沢商会が目黒に日本初の撮影所(グラス・ステージ)を建設し、剣戟を中心とした劇映画を製作した。
この年、日本においてもいよいよ映画製作が本格化していったのである。
1908年の主な作品
『ドリーの冒険』 監督:D・W・グリフィス
『ギーズ公の暗殺』 (フィルム・ダール社)
『Vive la vie de garcon』 監督・主演:マックス・ランデー
『ポンペイ最後の日』 監督:ルイジ・マッジ
『本能寺合戦』 監督:牧野省三
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