映画の1903年 - アメリカ映画の誕生
1903年、フランスではメリエスが引き続き活発な創作活動を続け、『妖精たちの王国』という大作をものした。しかし、メリエスのピークは1902年であり、以後は同じモチーフの繰り返しに終始し、この頃から徐々に時代遅れとなっていくのである。
そんな中、フランスで力をつけてきたのはパテ社である。1901年に映画部門を独立させたパテ社は徐々に力を伸ばし、作品を配給するシステムを確立した。パテ社はこれまでのリュミエールやメリエスとは異なり、映画製作者というよりは映画事業者であり、産業としての映画を勃興したといえる。それだけに作品の質の面ではまだまだ新規なものはなかったが、露天での映画興行が隆盛を迎える中、パテ社のフィルムは飛ぶように売れていった。
イギリスでは、アーバン社がG・A・スミスらの劇映画を配給すると同時にドキュメンタリーの制作を行い、1903年にはアイルランドで行われた<ゴードン・ベネット競走>を列車の中で現像することによって48時間後にパリで上映、ニュース映画の走りとなった。
アメリカでは相変わらず特許戦争による空転が続いていたが、そんな中でも特許戦争を有利に運ぶエジソン社は製作を続け、1903年にはエジソン者の演出部長であるエドウィン・S・ポーターがアメリカ初の劇映画といえる『アメリカ消防夫の生活』と『大列車強盗』と撮った。とくに『大列車強盗』はアメリカ中心の映画史では「世界初の劇映画」と称される名作で、主にG・A・スミスの技法をもとに作り上げたモンタージュはアメリカ映画の未来を感じさせるに十分のものだった。
日本ではニュース映画の撮影と上映、輸入作品の上映が主流であったが、そんな中、浅草に「電気館」という日本発の映画常設館ができた。しかし、これはまだまだ粗末な小屋で夜の上映もできなかったため、映画の普及におきな力とはならなかった。
ちなみにこの年、小津安二郎が東京に生まれている。
1903年の主な作品
『大列車強盗』 監督:エドウィン・S・ポーター
『妖精たちの王国』
監督:ジョルジュ・メリエス
映画の1904年 − 嵐の前の静けさ
今年の映画の状況は前年とほとんど変わらなかった。フランスではパテ社の伸張が目立ち、メリエスは「不可能な世界への旅行」という24分の大作を撮ったがこれは「月世界旅行」の焼き直しであり大きな話題とはならなかった。その中でゴーモン社が劇映画の製作を開始している。
イギリスではG・A・スミスにはじまるブライトン派と呼ばれる人々の映画制作が続いていた。アメリカでは「大列車強盗」のヒットを受けて10分を越える劇映画の製作が加速していた。
目新しい出来事といえば、イタリアではアンブローシオ社が設立され映画の制作が開始されたことくらいであり、日本でも状況は前年と変わりなかったといえる。
1904年の主な作品
『不可能な世界への旅行』
監督:ジョルジュ・メリエス
『可笑しな物語』
監督:ジェイムズ・ウィリアムソン(イギリス)
映画の1905年 − ニッケル・オデオンの誕生
この年、アメリカで映画史上に記すべき事件があった。それはニッケル・オデオンの誕生の誕生である。ニッケル・オデオンはニッケル銅貨1枚(5セント)の入場料で映画を見せる常設の映画館である。最初のニッケル・オデオンは1905年、ピッツバーグに誕生した。これは移民を中心とした労働者をターゲットとしたもので、暇をもてあました労働者たちがつめかけ大ヒット、あっという間に全米に広がっていった。後にハリウッドの大物となる映画人の多くはこのニッケル・オデオンの経営者からスタートしている。
そこでかけられる映画のほうは、エジソン社やアメリカン・ミュートスコープ・アンド・バイタグラフ社の作品が中心で、特許戦争も収束を見せ始めたアメリカではこれ以後、映画制作本数が一気に増えてゆく。
他方ヨーロッパでは、パテ社が引き続き伸張する一方でメリエスの凋落が明らかになってきた。メリエスはこの年、2つめのスタジオを建設したが、そのためにコストがかさみ、フィルムの価格を値上げ、その結果、興行師たちの不評を買うこととなった。フランスのもうひとつの大手、ゴーモン社もこの年スタジオを建設、パテ社を追撃する体制を整えた。
それ以外ではイギリス、イタリアで小規模ながら製作が続けられていたが、そのほとんどは独創的なものではなかった。
日本では、この年日本の勝利で集結した日露戦争を記録した映画が好評を博していた。戦争に帯同して撮影したのは吉沢商店のカメラマン千葉吉蔵であった。千葉は帰国後、凱旋した東郷平八郎の撮影も行い、日本の初期の記録映画を担った。
1905年の主な作品
『黒い悪魔』
監督:ジョルジュ・メリエス
『クリスマス前夜』 監督:エドウィン・S・ポーター
『ローマ占領』 イタリア初の本格的劇映画(アルベリーニ・エ・サントーニ社)
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