映画の1899〜1900年 - <構成された主題>の完成
19世紀が終わりを迎えようとする1899-1900年、アメリカの映画を取り巻く状況は相変わらず“特許戦争”が続き、いいとはいえない状況だった。
しかし、フランスでは1900年にパリ万博が開催され、そこでリュミエール兄弟は25m×15mという巨大スクリーンでの映画の上映を行い、大盛況となった。このことから映画という見世物がまだ観客の心をつかむことができるということが立証された。アメリカの各会社もこの万博では映画を上映し、彼らが映画に見切りをつけたわけではないことを立証した。
またこの万博では、トーキー映画の走りともいえる音声映画の実験がいくつも試みられた。その最たるものは大西洋汽船会社が実用化した<フォノラマ>であった。これは1899年にオーギュスト・バロンが開発した<シナマトラマ>を改良したもので、映写機と蓄音機という19世紀末の二つの大発明をシンクロさせることによって音声映画を可能にしたものである。この<フォノラマ>はフォノ・テアトル・シネマという劇場にかけられサラ・ベルナールの「ハムレット」など舞台を収録した作品を上映して大好評を博した。しかし、この<フォノラマ>の流行は装置の複雑さなどから数年で下火となり、トーキー映画の誕生にはつながらなかった。
そんな万博を尻目のお祭り騒ぎを尻目にジョルジュ・メリエスは着実に自分の映画を完成させていった。メリエスは1899年には「ドレフュス事件」と「シンデレラ」、1900年には「ジャンヌ・ダルク」と「クリスマスの夢」という15分前後の劇映画を製作、映画が「自然のものを記録する」だけでなく「構成された主題を表現する」手段として有効であることを自ら立証した。現在の映画のほとんどはこの頃のメリエスの作品に派生するものだといっても過言ではない。 そして、イギリスでもオリジナルの映画が誕生しつつあった。その主役はジョージ・アルバート・スミス。独特の技法でイギリス映画の父となった彼が活躍を始めたのは1900年のことだった。
日本では1899年、日本の興行映画第一号が公開された。それは、芸者を写した短いフィルムで構成されたもので、製作したのは駒田好洋の日本率先活動写真会、撮影は浅田四郎らがフランスから輸入したボーモン社のカメラで行った。
1900年には歌舞伎や相撲を主題にしたシャシンが何本か撮影され、さらには米西戦争を主題にしたフィルムがアメリカから入ってきたのを受けて、北清事変の撮影も行われ、日本でもいよいよ映画制作が本格化することになる。しかし、当時日本で使われていたカメラや映写機はすべて輸入されたものであり、その数は非常に限られていたため、それが大衆文化として根付いていくまでにはもう少し時間がかかる。
1899年の主な作品
『シンデレラ』 監督:ジョルジュ・メリエス
『Dancing Niggers』 監督:C・グッドウィン・ノートン
1900年の主な作品
『ジャンヌ・ダルク』 監督:ジョルジュ・メリエス
『おばあさんの虫眼鏡』
監督:ジョージ・アルバート・スミス
『Another Picture Showing Demonstration of a Pneumatic Shell Riveter』(ドキュメンタリー)
映画の1901年 − 映画の世紀は静かにはじまった。
20世紀になった。
20世紀は「映画の世紀」と呼ばれることになる世紀であるが、その年の映画界はまだひっそりとしていた。
そんな中、メリエスは引き続き旺盛な創作活動を繰り広げ、「赤頭巾ちゃん」「青ひげ」という2本の大作をものした。また、同じフランスでは現在まで続くパテ社で映画部門が独立、映画事業に本格的に参入を開始した。そのパテ社の作品で人気者となったのは役者も監督もこなすフェルディナン・ゼッカだったが、彼の作品のほとんどはメリエスやジョージ・アルバート・スミスの模倣であった。
他方そのジョージ・アルバート・スミスはイギリスで映画の制作を本格化させていた。彼の映画はモチーフには目新しいものはなかったがクロースアップを多用するという点で特徴的だった。クロースアップ自体は彼が考案したものというわけではなく、以前から取り入れられたものだったが、彼は人の顔のクロースアップを多用し、メリエスが仕草でその人の感情を表現したのに対し、表情でそれを表現するという方法を確立させた。またG・A・スミスはモンタージュも積極的に取り入れ、ここにまた新たな映画言語が誕生したといえる。
日本の状況は1900年とほとんど変わりなかった。興行師たちは機械を持って全国を回り、輸入ものを中心としたフィルムを上映した。映画の制作はほとんど行われず、映画はまだまだ新奇な見世物にとどまっていたのだ。
1901年の主な作品
『青ひげ』 監督:ジョルジュ・メリエス
『大飲み』 監督:ジェイムズ・ウィリアムソン
映画の1902年 − 映画宇宙へ行く
1902年はジョルジュ・メリエスが『月世界旅行』を撮った年として映画史に記憶されている。メリエスは<構成された主題>の映画と幻想映画を1899年頃から撮り続けていた。この『月世界旅行』はメリエスが力を注いできたふたつのジャンルの集大成として映画史に大きな一ページを刻んでいるのだ。この映画はウェルズとヴェルヌの小説を原作とした16分の作品で現在から見れば短編だが、当時としてはかなりの長編といえる作品だった。そしてこの映画は明確なストーリーをもち、しかも舞台を月にするという完全なフィクションだった。この作品は映画史上において劇映画が完成されたことを示す金字塔であると同時にSF映画の元祖でもある。
1899年から1902年という映画に逆風が吹いた時代をひとりで支え続けたメリエスはこの作品を持ってまさに「映画第2の父」となったのだ。
この年についてメリエス以外にほとんどいうべきことはない。アメリカにおける特許戦争は収束を迎えつつあったが、まだ続き、ジョージ・アルバート・スミスらヨーロッパの映画作家たちは相変わらず作品の模倣にいそしんでいた。日本では外国映画の興行が続き、わずかな短いフィルムが撮影されていた。
しかし、このメリエスの活躍によって映画は新しい時代への一歩を踏み出したのだ。映画は現実より数十年はやく宇宙へと進出することで、新たな時代の幕を開けたのである。
1902年の主な作品
『月世界旅行』 監督:ジョルジュ・メリエス
『Foxy Grandpa Shows the Boys a Trick or Two with the Tramp』 監督:カール・E・シュルツ
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