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2002年9月12日のエッセイ
 
 昨日、テレビではたくさんの9.11に関する特番をやっていました。北野武も、意味もなく出ていました。しかし、たけしの気持ちもわかります。何もできないのはわかっているけれど、何かしたい。その気持ちが1年という区切りでまたもたげてきた。だから、彼は無表情にNYに立っていたのでしょう。何の意見表明もせず、思想も語らず、うわべだけのお悔やみも言わず。

 そんな彼の態度とは裏腹に、テレビに登場していたのは、すさまじいばかりの暴力。テロ、空爆、倒壊の現場、誤爆の惨状、それらの情報はもちろん必要で、テレビはそれを伝えるべきだ。アメリカの「正義」を疑うこともした。それも必要だ。
 しかし、それらすべてに欠けているものがあった。目くるめく暴力の世界を概観したにもかかわらず、わたしの記憶に一番残ったのは、無表情にハドソン河に佇む北野武の表情だった。彼の表情が伝えるものは何か。それは世界が変わっていないということだ。われわれの、世界に対する見方は変わった。しかし、世界は変わらず、世界を動かしているはずの人々も変わらない。報道は、9月11日を境に世界が変わったと盛んに伝える。しかし、実際のところ世界は変わってなどおらず、以前からこのようなものだった。しかし、われわれの眼からは隠されていた。その覆いが取り払われ、われわれは自ら判断ができるようになった。だから、判断しなければいけない。

 もう一つ、わたしの印象に残ったのは、アメリカにいる反戦少女だった。彼女はテロのあと、アナーキストクラブを作り、反戦Tシャツを着て学校に登校し、クラスメートたちの猛反発にあい、3日間の停学をくらった。それでも彼女はあきらめず、裁判に訴えた。彼女についての記事を書いた記者は、記事に対する反応の99パーセントが批判だったと語る。これが世界の姿だったのだ。自由の国アメリカは本当に自由ではなく、多数派(あるいは力のあるもの)の意見を少数派(あるいは力のないもの)が押し付けられる世界だった。そして、おそらく世界もまたそうで、世界における力のあるものとはもちろんアメリカだ。
そのような世界の現実を隠してきた機構はWTCとともにがくずれ、そこには「ゼロ」が残った。すべてが見通せるようになってしまった。