崖の上のポニョ
2010/2/6
2008年,日本,101分
- 監督
- 宮崎駿
- 原作
- 宮崎駿
- 脚本
- 宮崎駿
- 作画監督
- 近藤勝也
- 音楽
- 久石譲
- 出演
- 山口智子
- 長嶋一茂
- 所ジョージ
- 土井洋輝
- 奈良柚莉愛
- 天見祐希
- 矢野顕子
- 吉行和子
海辺の崖の上の一軒家に暮らす宗介は海辺で不思議な魚を拾い、ポニョと名づけて飼おうとする。その魚は実は海の底で魚たちと暮らすフジモトのところから逃げてきた不思議な力を持つ魚だった。ポニョは宗介といたいと思うのだが、フジモトはポニョを取り戻そうとする…
宮崎駿が海と海辺の町を舞台に描くファンタジー。『ハウルの動く城』以来4年ぶりの長編作品。
映像はやはりすごい。それだけで宮崎作品を見る価値はあると感じさせる。アニメとは思えない迫力、不思議な動物や機械の発想力、それは本当にすごい。しかし、もはやそれは当たり前でそのことはここではあえて書かないでおく。
宮崎駿はどんどんわかりやすさから遠ざかっていっているような気がする。この作品はまず始まりからわかりにくい。海の底で人の顔を持つ魚と暮らす科学者らしき男(フジモト)、彼はいったい何者で、その魚(ポニョ)はいったい何なのか、説明されることはない。
そして、その魚が人に拾われたときにも、その人(宗介)はその魚を「金魚」というだけでその不思議さに触れはしない。最初、彼らにはその人の顔をした魚がただの魚にしか見えていないのかと思った。しかし、宗介の母リサが勤める老人ホームの老人の一人トキさんはその魚を見て「人面魚」だという。
もしかしてこれは、見え方の違いを示しているのかもしれない。宗介やリサや他の人たちにはポニョは魚と見える。しかしトキさんだけはその真の姿を見通して「人面魚」という。
そう考えてみるとこの作品のわかりにくさの原因というのは視点が混在しているところにあるのかもしれない。ポニョやフジモトに見える世界、宗介やリサに見える世界、トキさんに見える世界は異なっているのだろうがその違いを明確にすることなく、我々に提示されているこの世界がいったい誰の視点から見た世界なのかが明らかにされることもない。
たとえば海が大荒れになるシーン、宗介はその海に魚の姿を見るし、私たちにもそれが見える。しかし大半の大人はその魚の姿が見えていないか注意を払っていないようだ。それに続く洋上で船が大嵐に合うシーンでも、船員の一人が海から跳ねてきた黄金の魚を掴むが、それはすぐにただの水に変わってしまう。その船員は一瞬その黄金の魚を見たように見えるのだが、そのことを気に留めているようには見えない。
「不思議なこと」が起きたときにそれをどう解釈するのか、自分の持つ常識に押し込めてそれを否定するのか、それとも異なるものの見方を認めてそれを受け入れるのか。
しかし、などと説明してみても、この物語の世界を理解することはできない。この物語は最後まで現実離れし、徹頭徹尾夢のようだ。オリジナル作品としては実質上のデビュー作となる『風の谷のナウシカ』では確実にあったSF的わかりやすさがこの『崖の上のポニョ』では完全に失われてしまっている。
それを「御伽噺だから」と片付けることは簡単だ。御伽噺なら何が起きても不思議はないのだから。そういった見方をすればこの物語を受け入れることもできるだろう。
でもこの映画には御伽噺という定義には収まりきれないものがある。ポニョやその母親であるグランマンマーレの存在、その存在の意味をどうしても問いたくなってしまうのだ。
私にはその意味はよくわからなかった。わかりやすさから逃れようという意思の意味はわかるが、これはさすがにそのわかりにくさが意味しようとしていることを考えようにも、その材料が少なすぎるように思えてしまう。結局のところなぜポニョは人間になりたかったのか、そしてなぜ人間になってはいけなかったのか、その意味がよくわからないまま最後まで行ってしまった気がする。
子供ならではの意味を考えることなく通じ合うことのできる能力、それを失ってしまった大人を描いたと考えることもできるが、それだけでは足りないだろう。何かがストンと落ちたならすべてが明らかになるのかもしれないが、私にはその瞬間は訪れなかった。
