夏時間の庭
2010/1/12
L'Heure D'Ete
2008年,フランス,102分
- 監督
- オリヴィエ・アサイヤス
- 脚本
- オリヴィエ・アサイヤス
- 撮影
- エリック・ゴーティエ
- 出演
- ジュリエット・ビノシュ
- シャルル・ベルリング
- ジェレミー・レニエ
- エディット・スコブ
パリ郊外の大きな家に使用人のエロイーズと暮らすエレーヌの75歳のもとに子供と孫たちが集まる。画家だった叔父の膨大なコレクションがある家を維持するエレーヌだったが、自分の死後は売却して欲しいと長男のフレデリックに頼む。フレデリックはそんな話はするなと言うが…
オルセー美術館の協力を得て美術品と思い出、そして親子の関係を描いた静謐なドラマ。何が言いたいのかよくわからないが、映像はきれい。
透明な空気感が伝わってくる夏の庭、都会で暮らす(であろう)子供たちが駆け回るその空間には幸福感がにじんでいる。それを見詰める白髪だがまだしっかりとした印象のエレーヌ、まだ死を語るには早すぎるように思えるが、子供と孫たちがあわただしく帰った後、薄暗いポーチに座る彼女からは弱々しさが感じられてしまう。子どもたちを育てた大きな家に一人残されてしまった年寄りの寄る辺の無さがにじみ出ているのだ。
こういった画面構成のうまさはこの映画の優れている部分だと思う。あまり言葉に頼らず、映像で心情やメッセージを伝えようとする、その姿勢は映画としてすばらしい。物語が進行し、エレーヌが亡くなり、子供たちが遺産の話をするようになってもその姿勢は変わらない。彼らは、意見は食い違えども険悪な雰囲気にはならず、時に笑いあい、しかしそれぞれの人生に重い影響を与え合うことは無い。
そのようにとてもうまく描いているとは思うのだけれど、いかんせんそんな話だから、ドラマティックさにかけるし、それぞれの登場人物の心理から何か感銘を受けたりすることも無い。エレーヌの死に子供たちはそれぞれ衝撃を受け、それに継ぐ遺産相続の手続きでも感じるところがあるのだろうけれど、そのどれもが彼ら一人一人の自己の中で完結してしまい、画面の外にあふれ出てこないのだ。
エレーヌが死に、彼女が引き継いだ叔父のコレクションのほとんどが美術館などに渡ってしまうということ、そのことの持つ意味は一体何なのか?
まず言えるのはこの物語が不変であるモノと流れ行く時間、変わり行く人に関するものであるということだ。時間は流れてもモノは基本的には不変だが、人は変わり行くということ。時間が流れ、子から孫へと代替わりしてゆけばそのモノにまつわる想い出も塗り替えられ、そのモノが持つ意味も変わってゆく。
しかし、逆もまたいえる。ドガの彫像のように壊れてしまうものもあるし、それが修復されることもある。エレーヌの子供たちと孫たちが抱くエレーヌの思い出は異なっているけれど、エレーヌという人の魂は記憶の中に残り続けるのかもしれない。
と、考えてみても結局メッセージはあやふやというかぼんやりとしている。よく言えば解釈は見る側に任されているということなのだが、どうとでも受け取れるというのはやはり映画としては弱い。こういうヒューマンドラマ的な映画は最後にひとつでもすとんと腑に落ちるようなメッセージがあるとずいぶん変わる。
この映画にそれが必要だったというわけではないが、なんだかもやもやしてしまったので、そんなことを考えてみた。
