ベルサイユの子
2009/12/24
Versailles
2008年,フランス,113分
- 監督
- ピエール・ショレール
- 脚本
- ピエール・ショレール
- 撮影
- ジュリアン・イルシュ
- 音楽
- フィリップ・ショレール
- 出演
- ギョーム・ドパルデュー
- マックス・ベセット・ドゥ・マグレーヴ
- ジュディット・シュムラ
- パトリック・デカン
幼い息子エンゾを連れたホームレスの若い母親ニーナはある夜ベルサイユの森の中にあばら家を建てて暮すダミアンに出会う。ニーナはエンゾとダミアンが寝静まっている間にグルノーブルへ行き、職に就く。ダミアンはエンゾと暮し始めるが…
社会の底辺に生きる人々を描いた人間ドラマ。2008年に37歳の若さで急逝したギョーム・ドパルデューの遺作となった。
幼い息子を連れたホームレスのニーナ、立ち直るきっかけを捜し求めるが、その道は険しい。ベルサイユの森で暮すダミアンは世捨て人じみたところがあり、その森のホームレスのコミュニティの中で安穏と暮しているような印象もある。ニーナは本当に立ち直るため息子エンゾをダミアンのところに置き去りにし、遠くグルノーブルに職を求める。ダミアンは仲間の死、周囲からの嫌がらせを受けてエンゾをつれて実家に戻る決意をする。
この映画がまず描くのはホームレスの人々に対する社会の厳しい視線だ。ホームレスの人たちの中にもそこから這い上がろうと努力している人だっていっぱいいるのに、そういう考えはなかなか受け容れられない。人々はなるべくホームレス達から目をそらそうとする。そこには軽蔑とともに、自分がそうなる可能性から目をそむけていたという無意識も含まれているのかもしれない。
そのようにしてホームレスは社会から無視され、係わり合いを持とうとすると拒否されるわけだが、そこに子供が絡んでくると少し事情が変わってくる。“まっとうな”人たちはホームレスに子供が育てられるわけはないと考えるわけだが、ホームレスであっても子供(自分の子供であろうともなかろうとも)に対して抱く思いは変わらない。
この物語の最終的な中心になるダミアンとダミアンの家族(主に父親)とエンゾとの関係、そこに見えてくるのは“社会”によって歪められる人間同士の関係である。社会というのはもちろん人間同士の関係によって成り立っているものな訳だけれど、それが巨大化し、複雑化してゆくと、本来の人間同士の関係を逆に歪める。そんなことがこの作品からは見えてくるのだ。“社会”が押し付ける常識というヤツとダミアンとエンゾの関係性の間の齟齬、そこから見えてくるものはたくさんある。
ホームレスの人たちというのは、この社会との間に齟齬を感じ、疎外感を感じている人たちなのだろう。その原因はさまざまであり、「ホームレス」といっしょくたに考えること自体が問題をより根深いものにしてしまっているという感想をこの作品から持った。そもそもホームレスを「ホームレス」と総称してしまう社会の構造から考えていかないと、なぜ今の社会がこのように歪み、軋み、崩れ落ちようとしているのかは理解できないのかもしれない。
この作品の結末を見ると、社会というのは依然として非情で、人と人とのつながりというのは小さなコミュニティの中でも親密なかかわりの中でしか生まれないのだと思える。そのような非情な社会の中で生きるということ、この作品が投げかけるのはそんな重いテーマだ。
薬物などの問題を起こし、バイク事故で右足を失うという経験もし、37歳で夭逝したギョーム・ドパルデュー、遺作となったこの作品の彼の姿からは生きていくことのつらさがにじみ出る。
