ウイグルからきた少年
2009/12/18
Yashi
2009年,日本=ロシア=カザフスタン,65分
- 監督
- 佐野伸寿
- ヌルムハンベトフ・エルラン
- 脚本
- 佐野伸寿
- 撮影
- ボリス・トロシェフ
- 出演
- ラスール・ウルミリャロフ
- カエサル・ドイセハノフ
- アナスタシア・ビルツォーバ
カザフスタンで共同生活をする3人の子供、盗みをして小銭を稼ぐカエサル、工事現場で働くウイグル人のアユブ、少女売春をするロシア人の少女マーシャ。アユブは元締めの男に声をかけられてつれてゆかれ、山間の村落で母親のためだといわれて自爆テロのための訓練を受け始める…
自衛官の佐野伸寿がウイグルの存在を知って欲しいとメガホンを取り、フィクションとして撮り上げた。
言いたいことはわかる。先だってのウイグルでの暴動がニュースになったけれど、実際のところウイグルというのが何なのかはっきりわからないという人も多い。そんなウイグル人の少年が両親と引き裂かれ、一人カザフスタンに逃れる。そしてその少年を利用しようという大人がいる。そういう世界の現実に目を向けることは重要なことだ。
しかしこの映画は果たしてそのことを語っているだろうか? まずこの作品の舞台がカザフスタンであるということが非常にわかりにくいし、ウイグル人の少年は「中国」から来たといわれるだけで、中国におけるウイグル人の立場がどのようなものかということは説明されない。その辺りが説明されないと、この作品の狙いと思われる「ウイグル人についての知識を深める」という目的は達せられないのではないか? この作品でわかるのはウイグル人がムスリムでムジャヒディンとつながっていること。そしてカザフスタンでも差別あるいは迫害されているということだ。
そしてこの映画に不満を持つ更なる理由は映像のお粗末さだ。前半はまあいい。少年たちの日常を移しただけだからだ。しかしアユブが自爆テロのための訓練を始めるシーンなどはどうだろう?何もわからない少年が一人で銃を持って駆け回ることに何の意味があるのか?ほかに訓練を受けているものもいなければ教官もいない。これは一体何なのか。
そして極めつけはクライマックスとなるアユブが爆弾をまきつけて街へとでるシーンだ。いつ爆発させるのか時を持たせながら、街をうろつく彼を追い続けるのはかまわないし、その長さも緊張感を増す効果があるのなら問題はない。しかし、このシーンで明らかに無関係な人たちがカメラに反応するところが映ってしまっている。アユブとすれ違う人たちが明らかにカメラを見ているのだ。
この映画はフィクションだ。フィクションだということはカメラは存在しないことになっている。カメラ=観客の目はそこで演じられている“劇”の外部になければいけない。ドキュメンタリーの場合は必ずしもそうではない。観客はカメラとともにその場に赴き、時にそこにいる人たちの視線にさらされることがあってもいいのだ。なぜならドキュメンタリーとは現実をカメラによって切り取ったものであり、カメラもまたその現実の一部であるのだから。
しかしフィクションの場合はカメラの前で演じられたことがすべてのはずで、そこにカメラが含まれていてっはいけない。メタフィクション的な効果を狙った場合にはその限りではないが、この作品はどう考えてもそうではなく、ただゲリラ撮影的に撮った映像で無関係な街の人々がカメラを注視してしまったというだけだ。この瞬間にこの作品はフィクションとしての体をなさなくなり、世界は瓦解する。
言いたいことはわかるが、これは映画として成立していない。だからと言って見る価値がないことにはならないけれど。
