おくりびと
2009/9/22
2008年,日本,130分
- 監督
- 滝田洋二郎
- 脚本
- 小山薫堂
- 撮影
- 浜田毅
- 音楽
- 久石譲
- 出演
- 本木雅弘
- 広末涼子
- 山崎努
- 余貴美子
- 吉行和子
- 笹野高史
チェリストの大悟は所属していた楽団が解散し、職を失ってしまう。自身の才能に見切りをつけた彼は田舎に帰ることに。そこで見つけた求人広告を見て会社を訪ねると、そこは納棺師の仕事をするところだった。大悟はそのことを妻にも言い出せないまま、納棺師の見習いとして働き始める…
アカデミー賞外国語映画賞を受賞して話題となったヒューマンドラマ。脚本は放送作家の小山薫堂、監督はベテランの滝田洋二郎。
この作品は本木雅弘演じる主人公の大悟が故郷に帰って数ヵ月後、納棺師として仕事をしているシーンから始まり、その直後に彼が納棺師となる前、まだチェリストだった頃に戻る。彼はチェリストとしての才能の限界を受け入れ、故郷に帰り、“旅のお手伝い”という広告に勘違いをして納棺師という職業に入る。
山崎努演じる社長に半ば強引に引き入れられてしまったわけだが、その仕事について妻に言うことができない。私にはそこがまず理解できなかった。作品を見ていると、その理由というのが“納棺師”という職業が死体を扱うという点においていわば“下賎な”職業であるという意識が彼に、あるいは世間一般にあるという認識だということだ。
そのため大悟の子供のころからの友人である杉本哲太も彼を拒絶し、最終的に事情を知った妻も彼を「穢らわしい」といって拒絶する。死を扱う仕事というのは確かに敬遠されがちだけれど、果たしてそこまで嫌悪感を持つだろうか? ひとつの欠かせない職業として理解することは出来るし、最初のシーンで納棺師の仕事の様子が既に映されている以上、納棺師という職業は見る側にとっては既にむしろ尊敬しうる職業として受け入れられているのではないだろうか?
死体を扱う仕事に対して嫌悪感や差別意識を持つというのも理解できないわけではない。だから、この映画が他人に理解されない仕事であっても誇りを持ってやり、最終的にはその努力が報われて理解されるというヒューマンドラマのひとつのパターンを踏襲していることもわかる。
そして仮に世間の人たちがみな納棺師に対してこの映画に描かれているような嫌悪感を示すと仮定してみたら、この映画はそれなりに“わかる”物語ではあるだろう。本木雅弘、山崎努といった役者の演技はしっかりとしたものだし、映像も人々の感情をなぞるように丁寧に作られている。
しかしそれでも彼らのせりふの多くには「深み」が感じられない。すべてがステレオタイプ化されたパターンにはまり、意外性がない。本木雅弘が荒野でチェロを弾くシーンの必要性はいったいどこにあるのか? このシーンを含め、観客の感情をコントロールしてやろうというあざとさ、わざとらしさが目に付く。
ひとつひとつの納棺のシーンにはリアリティがあり、そこで見られるユーモアにも面白みがあって、それらのシーンには見る価値があると感じたが、主プロットとなる主人公をめぐる物語にはまったく共感できなかった。
いったん物語りに入り込んでしまえば、この深みのなさやわざとらしさも感じなくなるのだろう。そしてそのように入り込むための仕掛けもこの映画にはある。
しかし、前提となる納棺師に対する感情を受け入れられなかったり、わざとらしいせりふにいちいち引っかかってしまうとこの映画を観ることはもはや苦行でしかないと思う。
納棺師の5分の遅刻を怒った故人の夫がきれいに化粧された妻の姿を見て感極まって嗚咽するシーン、そのシーンは感動的だし、愛するものを失う悲しみというものがうまく表現されていると思う。しかしその直後その夫が妻の姿について「いままでで一番きれい」でしたと納棺師に告げるのはどうだろう? それを聞いて「ああ、納棺師って素晴らしい」と思えるだろうか?
私は色々な納棺のシーンを、淡々とつむぐような映画が観たかった。そこでは納棺師の存在は黒子となり、死と最も近い瞬間にたたされた人々の死に対する感情があらわになる。その集合によってこそ“死生観”なるものは見えてくるのではなかろうか?
この映画はそのドイラマトゥルギーのわかりやすさによって評価を得たのだと思うが、私はむしろそのわかりやすさを捨てたときにこそこの映画が真の名作たりえるのだと思えてならない。
