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ジャレッド・レトーの太り具合は凄い。これぞ役者根性ということだろうが、その後やせるのもまた大変だったろうなどと思う。このジャレッド・レトーのプロ根性の凄さと比べて、映画のほうはなんともお粗末な印象。
ジョン・レノンの暗殺はいまだに謎である。なぜマーク・デヴィッド・チャップマンはジョン・レノンを殺したのか。それこそがこの映画を見る人々がしたかったことだろう。しかし、そもそもわかっていないことが映画だから判るということはない。それでもこの作品は彼がニューヨークで過ごした3日間に絞って、そこでの彼の心理を追うことで殺人へと及んだ動機を何とか形作ろうとしているわけだ。
その結果何がわかったかといえば、この殺人が現在の社会で数多く発生してしまっているストーカー殺人やいわゆる異常者の模倣であるということだ。もちろん時間の順番から考えれば、現在の犯罪がこの殺人の模倣、あるいはこの殺人がそれらの異常犯罪のはしりだということになるわけだが、この映画の印象としては現在のそれらの犯罪からジョン・レノン殺害の動機を組み立てたという印象しかもてない。
最初にほのめかされる父親によるドメスティック・バイオレンス、それがもたらした性格的な歪み、他人とうまく関係が結べず、思い込みからさまざまな決断をしてしまう。そのような人物像はよくわかるのだが、それが殺人につながる理由はまったくわからない。彼は妄執をもっているが、なぜジョン・レノンを殺さなければならなかったのか。彼の心理を追ったところでそうしなければならないと思う彼の気持ちがまったく理解できない。
彼にある種の親近感を持つ人も現代では多いのだろうけれど、この作品がそういう人だけに向けられたのなら作品としてまったく意味がないし、そうではない人も彼の心理をつかむことが出来るようにすることこそが映画の意味なのではないか。
この作品はわざわざドキュメンタリータッチの手法を用い、チャップマンの一人称に非常に近い形で語りながら、観客はチャップマンを理解することは出来ない。
好意的に解釈すれば、ジョン・レノンほどの人物を殺したのだから納得できるような動機があると考えるのは私たちの勝手であり、実際はそんなたいそうな動機があったわけではないという考え方を提示したと見ることは出来る。ジョン・レノンを殺したのはある異常者の常人には理解できない妄執であり、そのような人間でも銃をもってハワイからニューヨークにやって来てジョン・レノンの前に立つことができるというアメリカ社会のあるというわけだ。
そう考えるのなら、この主人公の心理が理解できないのも理解できるというわけだ。でもそれではやっぱり救いがない。求める答えが与えられないからといって不満を言うのは自分勝手というものだが、ただそれだけのことを言うためにこんな映画を作るのは無駄だと思ってしまう。
この映画の問題は、結局ここからつながっていくものが何もないということだ。直接言及されるジョン・レノンや「ライ麦畑」とすらつながらない。それがこの映画を見て感じるむなしさの理由だろう。
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