| 主人公(?)の男が目覚めるシーンは『ソウ』にそっくりだ。ここがどこだかわからず、周囲の状況を判断しようとしてあたりを見回し、次に細部をチェックする。カメラはそれを主観ショットからクロースアップで捕らえ、男が置かれた状況を明らかにする。そしてそこに外部からのメッセージが投げ込まれるのだ。
違いはもちろん主人公が記憶を失っているということで、外部にいる「仲間」はそのことを知らないということだ。記憶喪失をモチーフとしたサイコスリラーも『メメント』以来連発されているが、これもその安易な模倣である。
この作品の眼目は、5人の閉じ込められた男たちのうち、少なくともふたりが犯人で、少なくともふたりが被害者だということだ。誰が犯人で誰が被害者なのか、それが明らかになっていく過程がこの作品の面白みであるというわけだ。
たしかに、誰が犯人で誰が被害者かという謎が明らかになるまでの駆け引きというか、心理の揺らぎは面白く描かれていると思う。しかし、ここで引っかかるのはなんといってもまずこの記憶喪失の原因になったガスである。まずそんなガスがあるのかという疑問があるし、濃度によって記憶喪失の度合いは変わってくるはずだが、ここでは5人が等しく記憶を失っているようだ。
そしてもうひとつは誰もが「自分は被害者だ」と思っているということだ。自分は被害者だからもう一人の被害者を見つけて逃げ出そうと考える。確かに、「普通の」人の感覚からすれば、被害者だと考えるのが当たり前だし、観客はそのことをすんなりと受け入れるだろう。しかし、冷静に考えてみれば、犯人である確率のほうが高いし、犯人であると考えて行動したほうが生きる残れる確率は高くなるはずだ。なぜなら、被害者だと仮定して逃げ出した場合に、もし犯人ならば仲間に狙われることは間違いない。逆にもし犯人だと仮定してその場をコントロールすれば、一味がやってきたときの状況を見てそれに対応できるはずなのだ。
この作品は結局、人間の心には正義があるとでも言いたげな性善説で、誰もが被害者になりたがることで5人の関係を単純化してしまったことで退屈なものになってしまっている。しかも、途中で誰が犯人で誰が被害者かが明らかになってしまうことで、展開に対する興味も失われてしまう。むしろ一味がやってくるまで誰も自分が犯人なのか被害者なのかわからないまま展開したほうが、その瞬間の緊張感が高まり、スリルが生まれたはずだ。
最後はどんでん返し的な意外な展開を見せて「どうだ」とでも言いたげに終わるのだが、その前にすでに退屈してしまっている観客にはこれは蛇足にしか感じられないだろう。
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