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新商品に失敗して、会社をクビになる。そこまでは普通だし、それで自殺しようと考えるというのもありそうな話だ。しかし、その方法というのがエクササイズバイクに包丁をくくりつけ、それで自分を刺そうというのだから変わっている。そして、父の訃報を聞き、遺体を引き取りにケンタッキーへと向かう飛行機には乗客が彼ひとり、そしてこちらもたった一人の客室乗務員が迷惑も顧みず話しかけてくる。これも変だ。
そして、父親の遺体と対面したドリューは「表現する言葉が見つからない」と心の中でつぶやき、最後に「変わり者」と表現する。これが、この映画を見事に表現してるのではないか。この映画の主人公であるドリューとクレアはどちらも変わり者であり、お互いも相手をそのように言う。実際、始めてあった日に夜通し電話で話すんだから、変わり者以外の何者でもない。
そんな彼らが魅かれあっていることは誰の目にも明らかだが、彼ら自身はそれを否定しようとする。理由はそれぞれに違うのだろうが、とにかく深入りはしないようにするのだ。クレアは自分たちを「穴埋めの人」だと表現する。彼らが魅かれあったのは2人ともが変わり者だからだろうか? 私はそうは思わない。人というのは変わり者に、あるいは変わっているところに魅かれるものなのだ。魅力というのは普通のものとのギャップに存在する。変わっていれば換わっているほど魅力的というわけではないが、「普通」から適度にずれているのが魅力的なのだ。
そして、それはこの映画にもいえる。この映画はいわゆる「普通」の映画から少しだけずれている。そのずれはわかりにくさにつながることもあり、わからないがゆえにつまらないということにもなりがちだが、この作品はそんなことはないと思う。このずれ方は私には非常に心地よい。スプリンクラーが作動しても歌い続けるバンドも(エレキギターで感電しないかと心配にはなるが)魅力的だし、そんな異常事態にも迅速に対応できるのは、常々普通からずれている変わり者の特性だ。
そして、ドリューのお母さんもお父さんも妹も親戚も、ホテルで結婚式を挙げようとしてるチャックも変わり者だ。そしてその変わり者さ加減というのは誰もが少しは持っているであろうずれを誇張したようなものなのだ。こういう人たちは非常に魅力的だ。この人たちがいる空間では普通だったら起こるはずのことが起きず、もっと楽しいことがおきる。
この映画は基本的にはラブストーリーだが、ラブストーリーとはつまり人との出会いと別れを描いた物語である。この映画はそのラブストーリーの本質的な部分を「恋」から敷衍してさまざまな出会いと別れを描いた。もちろんドリューの父との別れ、母親の新たな自分との出会い、それらが組み合わさることで、焦点の定まらない印象を与えつつ、なんとなくほっとする。そして最後の「特別な地図」は本当に素敵だ。結末は今ひとつという気もするが、まあよしとしよう。
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