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日本が戦後の混乱期から復興し、社会として安定したことを象徴するのが「サラリーマン」だった。サラリーマンであるということは社会の一員であることの証明であり、同時に社会のマジョリティでもあった。そんなサラリーマンの一員になった新入社員を描くこの作品は、まさにこの時代の鏡といってもいい作品だっただろう。
劇中にも「外食券」や「追放解除」などという時代を表す言葉が出てくるが、まだまだ戦後の影は色濃く、復興が進んでいたとはいえ物不足は深刻だった(一張羅を盗まれた京太は野球部のユニフォームしか着るものがない)。そして、それはこの時代がまだまだ生きていくのが大変な時代であったこともあらわしている。サラリーマンになり、社会の一員になったからといって安寧ではない。いつ首を切られ、路頭に迷うかわからない、そんな時代だった。そんな時代だからこそサラリーマンにとって出世が重要であり、重役に気に入られるということが重要だったのだ。
そこから出てくるのが、サラリーマン喜劇の定型、重役と個人的なつながりを持って出世する道と自分らしく生きる道との間の二者選択を迫られるというプロットであり、この風間京太もその例に漏れない。さらには、社会をドロップアウトした貧しい芸術家も登場し、ますますステレオタイプな構図が浮き彫りになる。
まあ、しかし映画としては楽しい。貧しくとも明るさのある時代、その時代性を反映して、人々は明るい。戦争中や戦争直後のような暗さはぬぐわれ、誰もがうきうきとした感じを持って生きている。映画の終盤に登場する「スクエアダンスの集い」なんかはその象徴的なイベントだろう。スクエアダンスはアメリカ生まれのフォークダンスの一種で戦後の一時期日本でも流行した。見知らぬ他人が集まって手に手をとって踊る。それは時代の明るさと人々の一体感を象徴しているように思える。京太と若子もそのスクエアダンスに参加してくさくさした気持ちを払拭し、明るい表情で家路につく。その帰り道はこの映画の中でもっとも幸せで楽しい時間だ。サラリーマン生活はつらいけれど、つらいことばかりではない。時代が変われば明るい未来がやってくる。そのように観客に語りかけているかのようだ。
しかし、その結末は決して楽天的ではない。サラリーマンの悲哀、それはそれが単なる職業ではなく、生き方であるということにある。出世競争も会社の人間関係も生き方すべてにかかわる問題なのだ。この結末を見ると、この作品は全盛期の東宝サラリーマン喜劇との時代の違いを感じる。高度成長期という時代を映したモーレツな物語とは違って、時代の影を感じさせるのだ。
全盛期のモーレツな作品も面白いが、このような作品からは時代の移り変わりを感じることができてよい。決して「古きよき時代」とは言い切れないが、流れる空気はあくまでも牧歌的なものであり、現代のサラリーマンからしてみればうらやましい限りだろう。東宝サラリーマン喜劇を今見て面白いのは、今との共通点と懐かしさを同時に感じることができるからだ。それはこの作品にも言える。
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