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夜よ、こんにちは

★★★--

2007/4/1
Buongiorno. Notte
2003年,イタリア,105分

監督
マルコ・ベロッキオ
脚本
マルコ・ベロッキオ
撮影
パスクァーレ・マリ
音楽
リカルド・ジャーニ
出演
マヤ・サンサ
ルイジ・ロ・ショーカ
ロベルト・ヘルリッカ
ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ
ジョヴァンニ・カルカーニョ
preview
 1978年イタリア、キアラは左翼ゲリラ“赤い旅団”に参加していた。赤い旅団はアルド・モロ元首相の誘拐を実行、キアラはほかの3人の仲間とともに隠れ家にモロ元首相を監禁する役目についた。キアラは仲間の1人と夫婦のふりをし、仕事にも普通に行きながら緊迫した日々を送るが…
  マルコ・ベロッキオがイタリア最大の事件と呼ばれたモロ元首相誘拐事件を誘拐犯の側から描くことで、その意味を問いかけた社会派ドラマ。前半は退屈だが、最後まで見るとなかなか面白い。
review

 前半は単調である。実際に起こった事件だけに、基本的には事実に忠実に、隠れ家を準備し、誘拐事件が起き、モロ元首相を連れてくる。若い犯人たちは緊張しながら人質を丁重に扱い、自分たちがやっていることの反響をニュースで追う。そして、誘拐の際に護衛官らが殺されたことから自分たちが(殺したのは自分自身ではないにしろ)人殺しといわれていることに憤る。
  その単調な展開にわずかな変化をつけるのはキアラの夢とも想像ともつかぬ物思いである。最初は共産主義思想への傾倒が夢に現れ、それが古いニュースフィルムの形を取ってイメージとして示される。それ以外は上の階の住人が2度ほど闖入してくるくらいで緊迫感を与えるような瞬間はあまりない。
  しかし、キアラが仕事に復帰すると徐々に展開はドラマティックになって行く。キアラは少しずつモロに同情的、あるいは彼を尊敬するようになって行く。彼女は夢の中でモロが部屋の中を歩くのを目にする。
  さらにキアラは亡くなった両親の法事のために親戚に会い、そこで親戚がパルチザンの歌を歌うシーンが出てくる。パルチザンはファシストからイタリアを解放し、イタリア人たちはそれを誇りに思っているのだ。年配の人々だけでなく、若者もその歌に加わるのだ。 “赤い旅団”に加わるキアラらは自分たちこそがパルチザンの後継者だと辞任していたが、モロもまた自分こそがパルチザンの後継者であると考え、TVのニュースは逆に“赤い旅団”を「ファシストの銃殺隊」と非難する。それによってキアラは自分たちの行為の正当性を疑い始めるのである。
  こう書いてしまうと、非常に紋切り型だし、2項対立のように見えてしまうが、ここに描かれているのはそのような単純な構図ではない。ここには労働者の代表として出発したはずの共産主義の変容と、ファシストからの解放から出発したはずの民主主義政党の右傾化という二つの要素から生じる民主主義の空洞化が描かれているのではないだろうか。
  モロがいうように“赤い旅団”は権力を手に入れようとしており、政府は自分の死を利用して権力を維持しようとしている。共産主義者による民主主義に対するテロリズムと文字通りには解釈されるこの事件は、実は異なる主張を掲げるふたつの権力の間の権力闘争に過ぎないのだ。だからモロ(とキアラと仲間たち)は最終的に権力から自由なはずの法王に救いを求めることにする。
  しかし、権力闘争はやまない。この作品はそのような権力闘争の無意味さを共産主義に希望を見出したはずのキアラが徐々に絶望してゆく姿を描くことによって表現する。終盤の展開は人質を最終的にどうするのかという結論に向けて緊迫感が生まれ、素晴らしいものになっている。その緊迫感の中で、キアラの心で育ってゆくもやもやとした黒い塊が観客の中にも居座り、見終わってもすっきりしない感覚が残る。この感覚こそがここに描かれた権力闘争の無意味さの触感であり、現代まで続く民主主義における空洞を埋めている空虚なのである。
  キアラという登場人物を通してこの“テロ事件”を旅する観客は、その空虚から出発する。今の社会と人々の心にぽかりと開いた空洞を埋めるのはいまだにこの頃と同じ空虚さなのだ。その空虚を何かものあるもので置き換えるために一体何ができるだろうか。ついついそんなことを考えずにはいられない示唆に満ちた作品だ。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: イタリア

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