| この映画の原作はマーヴェルだが、マーヴェルのコミックは本当によく映画になる。古くはもちろん『スーパーマン』だが、近年は『ブレイド』『スパイダーマン』『ハルク』『X−MEN』『デアデビル』『エレクトラ』『パニッシャー』とあげれば本当にキリがなく、さらにどんどん続編、新作が公開される。
これにはもちろん理由がある。それは、これらのコミックというのが長年描かれつづけたものであり、消費者に受け入れられることがすでに明らかであること、わかりやすいパターンを持っていること、そしてコミックの世界をCGによって表現できるようになったこと、などの理由である。そのような理由を考えると、これらのコミック映画がまさにこの時代にマッチしているのだということがよくわかる。
CGによる実写映画のアニメ化、わかりやすさへの偏向、これらの今のハリウッドを支配する考え方がコミックのアニメ化へと向かい、その対象として定評のあるマーベルのコミックが選ばれていくのだ。この『ファンタスティック・フォー』も連載が開始されたのは60年代初頭で、『X−MEN』より古い、以前にアニメ化もされているし(日本では「宇宙忍者ゴームズ」という題名で放送された)、いつ映画化されてもよかったはずだが、この時期に映画化されるのである。そしてもちろん続編も作られ、シリーズ化される。『X−MEN』の二匹目の泥鰌を狙ったことは明らかだが、それでもそれなりにヒットしてしまうのにはこのような要因があるのだろう。
さて、作品のことにちっとも触れていないが、この作品は映画としては普通だ。というのも、これはあくまでも序章でしかないからだ。彼らは事故によって宇宙線を浴び、突然変異して超能力を身につけてしまうわけだが、この作品ではそこから普通の人間に戻ろうとするというプロットと、それに対抗するビクターとの関係というプロットのふたつが展開されるだけであり、ヒーローたるファンタスティック・フォーの活躍はちっとも描かれない。
結末を言ってしまえば、彼らは自らファンタスティック・フォーであることを選択するわけだが、そこから本当のヒーロー物語がはじまるということである。だからこの作品は次からの作品のためのプロローグに過ぎず、「だから?」という映画なのだ。
ただ、これを見ながら『X−MEN』との違いについて考えると、少し面白くなる。『X−MEN』はミュータントが主人公の映画であり、彼らは否応なくミュータントであるのだが、『ファンタスティック・フォー』のほうは結局自らミュータントであることを選んだことになるのだ。この違いは非常に大きい。『X−MEN』には葛藤があるが、ここにはほとんどない。アメリカではこの『ファンタスティック・フォー』のほうが一般に受け入れられやすいということだが、それもよくわかる。
でも、私は『X−MEN』の悲哀や含蓄ある物語のほうが好きだ。ミュータントがミュータントであるがゆえに悩み、葛藤する。ヒーローとはそのような葛藤を抱えなければならないものではないか。あっけらかんとしたヒーローが戦うだけの話なら、本当に子供だましに過ぎない。
|