| まあ、よくある話といえばよくある話だ。反抗的な少年たちが寛容な先生と触れることで心を開き、変わって行く。このような少年たちがゆがみ、反抗的なのは、彼らのせいではなく周囲の環境のせいだという教訓、それは究極的には親の愛の問題とされて片付けられる。
しかし、話はもちろんそんな単純ではない。大人と子供はそんなに簡単に割り切れる関係ではない。まず教師のマチューは虚勢を張っているが、本当は怖くてしょうがない。体罰で脅しつけることは簡単だ。大人の権威で子供たちをすくみあがらせ、反抗できないようにする。それは自分自身の力ではなく、権威という別の力を借りて子供たちを支配することだ。しかしマチューが選んだのは一人の人間として子供たちと対峙すること、自分自身の心の力で子供たちに対抗し、支配するのではなく理解させようとすることだった。これは北風と太陽という寓話のようで、ひとつの原物語のような話である。
しかし、この物語はその寓話だけでなく、その裏にある“大人の心”も描こうとする。マチューは必死に虚勢を張るが、同時に子供たちの中で培われてきた猜疑心と暴力を怖れてもいる。その虚勢は子供たちにも簡単に見透かせるものだ。しかし、子供たちはその虚勢につけ込まず、彼を尊重する。そこに子供たちの成長の一歩があるのだろうと思う。
そしてもうひとつモランジュと母親の関係ももうひとつのテーマとなる。親の愛情を必要とする子供とそれを与えられない親、モランジュが母親の愛情を独占できないことから母親に対するモーションとして反抗的な態度を取ってきたのだということは明らかだ。しかし、母親はそのことにあまり気づいていない。親も一人の人間であり、完全ではないのだということにモランジュは気づかなくてはならない。途中で「沼の底」にやってきたモンダンはそのことに気づいた上で、確信犯的に親と同じような悪党になった。
しかし、モランジュはマチューと出会うことでそこから救われた。それはマチューが不完全な人間であることを隠さない大人だったからだ。校長のように不完全な部分を隠し、相手を圧迫することによって自分を守ろうとする大人、そのような大人とは違う大人に出会うことで、彼は不完全な母親を許せるようになるのだ。
成長して行く子供と、それを促しまた同時に自分自身も成長する大人、よくある話ではあるが、しっかりと描かれるとやはりおもしろい。フランス映画らしくない素直さもなかなか。
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